写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

ピューリッツアー賞の写真家たち

 日本カメラ博物館で11月3日より、ベトナム戦争を取材してピューリッツアー賞、世界報道写真展大賞などを受賞した報道写真家の澤田教一が使用した、カメラとヘルメット、ピューリッツアー賞・賞状、世界報道写真展大賞のトロフィーとメダル、ロバート・キャパ賞メダルなどの展示が開始されました。

f:id:ilovephoto:20201103231920j:plain

≪日本カメラ博物館の澤田教一コーナー≫
 ピューリッツアー賞は、ニューヨーク・ワールド紙の発行者であったJoseph Pulitzerの遺産によりアメリカ・コロンビア大学に1917年に設けられ、ジャーナリズム、文学、音楽の分野で優れた仕事をした人々に毎年与えられてきた賞です。受賞の報道は日本の新聞でも掲載されていますが、最近そのスペースは新聞報道でもわずか10行程度であり、注視していないとわからないほどです。過去、日本人の受賞者は、長尾靖(1961年受賞)、澤田教一(1966年受賞)、酒井淑夫(1968年受賞)の3人で、いずれも報道写真家であり、さらに受賞年代が1960年代に集中しているために、昨今の写真教育受ける大学生に聞いても賞の名前は聞いたことがあるけれど日本人受賞者の名前は知らないといい、一般文科系の学生は賞を知ってはいるけれどということで、日本ではピューリッツアー賞そのものがある意味、過去の話になりつつあるのではと考えるわけです。このような時期に沢田教一のカメラと受賞の記念品などが恒久的に日本カメラ博物館に収蔵され常設展示されるようになったのは、写真ジャーナリズム史としては大変意義あることだろうと考えるわけです。ここでは、たまたまこれら受賞写真家を知る方々から過去にお話を聞くことができたので、極めて個人的な部分をも含めて書きとどめておくことにしました。

■長尾靖(ながお やすし)
 ピューリッツアー賞を1961年に日本人で最初に受賞したのは毎日新聞写真部の長尾靖(1930~2009)です。長尾は千葉大学工学部の工芸化学科写真映画専攻を卒業していますが、当時の写真は化学であり、新聞社写真部には暗室があり現像やプリント作業にはそのような専門知識が必要だったのです。
 長尾の受賞作品は、1960年の10月12日に日比谷公会堂で開かれた自民、社会、民社の3党首による演説会に登壇した日本社会党浅沼稲次郎委員長が、学生服姿の17歳右翼団体少年に刺殺される瞬間を撮影したものです。この事件の起きたとき私は中学生でした。当時同級生に社会党本部に父親が勤めるKj君がいたのですが、放課後彼の住む団地の広場でKj君と仲間数人で話しているところに遠くから友人のN君が「大変だ、浅沼さんが刺されたぞー」とやってきたのです。その時代のことはほとんど忘れてしまったのですが、なぜかその数分のことだけは60年経った今もしっかりと脳裏に焼きついているのです。

f:id:ilovephoto:20201019160533j:plain

≪長尾靖、ピューリッツアー賞受賞作品。写真は、毎日ムック『戦後50年、POST WAR 50 YEARS』120ページより、1995年、毎日新聞社刊≫
 それから55年ぐらいたったある時、毎日新聞社の写真部にいたKさんとの雑談の中で長尾さんの当時の話を聞くことができました。私と同年でかつて「カメラ毎日」の編集部にいたときから50年来の知り合いです。Kさんは私と同年ですから、当然のこととして写真部の先輩方に話を聞いたということです。
 日比谷公会堂の現場で長尾さんの使っていたカメラは、当時の新聞報道の現場では主流であった4×5シートフィルムを使ったスピグラ(スピードグラフィック)で、撮影の現場では必ず1枚は未撮影のまま残して社に戻るという決まりがあったそうです。この日も各党首の並んだ写真を撮り、1枚を残してありました。浅沼委員長が登壇し演説が始まり、次の自民党までパックフィルムの交換を見計らっているときに事件は起きたのです。この瞬間は、共同通信東京新聞を始め各社が写していますが、これらの社の写真に対して毎日の長尾の写真が最も異なるのは、補助光にフラッシュバルブでなくストロボを使っていたのです。この現場写真は、最初は壇に向かって右から乱入した少年が浅沼稲次郎の左わき腹を刺し、この瞬間をとらえた写真は他社にもありますが、長尾の写真は刺された後に動く浅沼委員長に対しもう1度刺そうと立ち向かった瞬間だったのです。
 この結果、浅沼の腰は引け、顔は大きくゆがんで、メガネはずり落ちる瞬間で写っているのが決定的瞬間となったのです。このときに同じ場面を写した写真もありますが、よく見ると体と刃物が流れて写っているのです。当時毎日新聞社は、日本に入って来たばかりのハイランドのストロボを使っていたのです。したがって、撮影の瞬間はシャッタースピードで止められたのではなく、ストロボの閃光時間で止められたのでした。写真的に見ると、流れているほうがいいか、止まっていることがいいのかは意見が分かれますが、すくなくともこの場面はすべてが止まった瞬間の写真が良かったのです。この決定的瞬間は毎日新聞社からアメリカの通信社UPI(United Press International)を通じて世界中に配信され、ピューリッツアー賞と世界報道写真大賞などを受賞しました。
 長尾は受賞の翌年、1962年1月に毎日新聞社を退社してフリーランスのカメラマンとして独立しています。受賞後には国内外で講演の依頼が多数あり、仕事を休まなくてはいけなかったこともあったようです。88歳で亡くなるまで生涯独身を通し、晩年は伊豆に住み、死後数日たって訪ねてきた知人に見つけられ、後日遺族により遺品整理がされたときにピューリッツアー賞の賞状がでてきたとのことです。
(各社の浅沼稲次郎委員長刺殺現場写真は、Web上で見ることができますので、興味ある方は参照ください)

澤田教一(さわだ きょういち)
 澤田教一(1936~1970)は、1966年にピューリッツアー賞を受賞しています。澤田は、1936年2月に青森県に生まれました。1950年4月に青森高校へ入学し、卒業後の1954年、米軍三沢基地内の写真店で働きだし、のちに夫人となるサタさんと知り合い1956年に結婚。米軍のPXでポートレート写真を撮るようになりました。1961年に米軍将校の紹介でUPI通信社東京支社へ入社。1965年UPIで休暇を取ってベトナムの取材を行い、このときの自費取材が認められ7月にはUPI特派員としてサイゴン支局に赴任しました。9月「安全への逃避」を撮影。「安全への逃避」でハーグ世界報道ニュースグランプリ、USカメラ賞受賞、1966年4月には「安全への逃避」でピューリッツアー賞とアメリカ海外記者クラブ賞、「泥まみれの死」でハーグ世界報道写真展ニュース部門第1位、「敵を連れて」で同2位、USカメラ賞を受賞。1968年「フエ城の攻防」でUSカメラ賞などを受賞しました。1968年9月UPI香港支局に写真部長として赴任。1970年1月UPI特派員としてサイゴンに再び出向きました。10月28日、UPIプノンペン支局長とともに取材中のカンボジア国道2号線で狙撃され殉職、34歳でした。1970年にはロバート・キャパ賞、講談社文化賞、アサヒカメラ賞を受賞しています。(経歴は『二人のピューリッツアー賞カメラマン「戦場」澤田教一・酒井淑夫写真集』より、抜粋引用しました)

f:id:ilovephoto:20201019211224j:plain

澤田教一ピューリッツアー賞受賞作品「安全への逃避」。写真は、『二人のピューリッツアー賞カメラマン「戦場」沢田教一・酒井淑夫写真集』、91ページより、2002年刊、共同通信社

f:id:ilovephoto:20201103233734j:plain
≪左:澤田教一、右:酒井淑夫、写真は、『二人のピューリッツアー賞カメラマン「戦場」沢田教一・酒井淑夫写真集』より、2002年刊、共同通信社
 今回、日本カメラ博物館に寄贈されたのは、ライカM2(1965)、ローライフレックス2.8C(1953)、澤田教一使用M1スチールヘルメット(内側の頭頂部にはヒョウタンのお守りが仕込まれている)、アメリ国防省の発行したIDカード、世界報道写真大賞のトロフィーとメダル、ピューリッツアー賞の賞状(1965)、ロバート・キャパ賞メダル(1971)、このほか、澤田が撮影した数万点分におよぶフィルムや紙焼き写真があり、いま現在、整理と保存処理を開始したばかりで、これらの写真の展示は未定とされています。
 澤田教一と私は特に接点はありませんが、2000年の8月に当時共同通信社の新藤健一さんと、ニコンF2の元設計者であった佐藤昭彦さんとともに、澤田教一の弟さんと東京で会っています。このときは何でも澤田教一の残したフィルムとプリントの整理のために青森の弘前に皆で行くとかいうことで、弟さんには澤田サタさんが弘前市内の自宅で開いていた「レストラン澤田」の名刺をもらいました。しかし、なぜこの場に私がということですが、実はこの1週間ほど前にやはりピューリッツアー賞作家のエディ・アダムズが日本にお忍びで来ていたのです。このとき、これからエディ・アダムズと会いますよと新藤健一さんに電話したのに対し、後日改めて澤田教一の弟さんが上京したので私も一緒に会おうとなったのです。これは、いま考える不思議なもので、エディ・アダムズと会食後に写真を撮らせてもらった時の同じフィルムのすぐ後のコマに、撮影日は異なるのに新藤さんと澤田教一の弟さんが写っているのです。

■酒井淑夫(さかい としお)
 酒井淑夫(1940~1999)がピューリッツアー賞を受賞したのは1968年です。酒井は、1940年3月に東京で生まれました。1961年明治大学在学中にPANA通信社パン・アジア・ニュースペーパー・アライアンス、後に時事通信社傘下に)で暗室作業のアルバイトをしていました。1965年4月にUPI通信社東京支社に入社して、サイゴン支局に赴任しインドシナ戦争を取材して、6月雨季の南ベトナムで『より良きころの夢』を撮影したのです。1970年10月にカンボジアで殉職した澤田教一の遺骨を香港のサタ夫人に届ける。1971年2月、ケサン基地を拠点にしてラオス侵攻作戦を取材。5月、UPI社を一時退社してアメリカに渡りました。1973年、1月フリーカメラマンとしてサイゴンに入り、パリ和平協定による停戦を受けてタクハン川での捕虜交換などを取材、このとき一ノ瀬泰三が同行しています。UPIサイゴン支局に写真部長として復帰。11月、一ノ瀬泰三もカンボジアへ取材に行き行方不明となる。1974年12月フィリピン・ミンダナオ島モロ民族解放戦線を取材。1975年、陥落寸前のサイゴンカンボジアなどを取材後、9月ソウル支局へ赴任し、朴政権下の韓国を取材。1976年UPI社を退社し、フリーとなり、ニューズウイーク、タイム、ロイター通信社を媒体にして取材する。1986年AFP通信社(Agence France-Presse)東京支局写真部長に就任し、ソウルオリンピック天安門事件、フィリピン政変などを取材。1989年AFP通信社を退社し、ビデオ企画会社を興す。1999年、11月21日、鎌倉の病院にて死去、59歳でした。(経歴は、『二人のピューリッツアー賞カメラマン「戦場」澤田教一・酒井淑夫写真集』より、抜粋引用しました)

f:id:ilovephoto:20201019214319j:plain

≪酒井淑夫ピューリッツアー賞受賞作品「より良きころの夢」。写真は、『ピュリッツアー賞カメラマン「酒井淑夫写真展」』図録、8ページより、2001年、酒井淑夫写真展実行委員会(新藤健一ほか5名)刊、表紙デザイン西垣泰子≫ 酒井はこのような雨季の場面を何度も経験していて、写真を撮るのに雨の中で人物の肌を表すために、グリーンのフィルターをかけて撮影したと新藤さんに語ったそうです。なお、本書の刊行に合わせて、巻末には元APカメラマンであったエディ・アダムズがメッセージを寄せています。

■エディ・アダムズ(EDDIE ADAMS
エドワード・アダムズ(Edward "Eddie" Adams)は1933年6月、米国ペンシルベニア州ニューケンジントンエドワードとアデレード・アダムズの息子として生まれました。高校在学中に学校新聞の写真班一員として参加。卒業後米国海兵隊に入隊。戦争終結後の3年間にわたり戦闘記録写真撮影を任務として朝鮮に駐留しました。1958~62年フィラデルフィアのイブニング・ブレティン紙(The Evening Bulletin)に勤務した後、AP(Associated Press)通信社に入る。1972~76年タイム誌(Time)の写真部員として勤務した後、再度AP通信社に特派員として戻り、この期間に舟で逃避をはかるベトナム難民の状況を撮影しています。撮影された写真は全米各紙に広く掲載され、米国務省による議会への問題提起を促すことになり、これを契機として時の政権は20万人に及ぶベトナム難民を米国に受け入れる決定をしたのです。
20余年間にわたってアダムズはパレード 誌(Parade)の特派員として世界を駆け廻り各国政府首脳、その他各界著名人のポートレートを撮影。それらの多くは同誌表紙に名前入りで掲載されました。1988年には、フォトジャーナリストとしての自己形成を目指す若者に修練の場を提供することを目指して、エディ・アダムズ・ワークショップ(Eddie Adams Workshop)を開設。ニューヨーク州ジェファーソンヴィル村(Jeffrsonville)を拠点として、講師には世界的に知られた写真家、主要各紙誌の写真編集者を招きました。35カ国におよぶ人権擁護活動家を網羅したアダムズの写真は2000年、ケリー・ケネディー(Kerry Kennedy)著、“力あるものに対峙して真実を語る”(“Speak Truth To Power”;Umbrage社刊)に掲載されています。2004年9月19日、ALSで死亡。エディ・アダムズの写真は2009年にアーカイブとして、テキサス大学オースティン校の施設であるアメリカ歴史研究・ブリスコ-センターに収蔵されました。(エディ・アダムズの経歴は『EDDIE ADAMS VETNAM』の表紙カバーより抜粋引用しました)
 エディ・アダムズは1969年にピューリッツァー賞を受賞しています。「路上の処刑」は、1968年2月1日、ベトコンのグエン・ヴァン・レムを路上で処刑した警察署長のグエン・ン・グック・ローンの写真を撮ったエディ・アダムズの写真は社会的にさまざまな議論を呼びました。以下に、「路上の処刑」が載せられた2冊のエディ・アダムズの写真集を紹介します。

f:id:ilovephoto:20201027154820j:plain

≪エディ・アダムズのピューリッツアー受賞作品「路上の処刑」。写真は、『EDDIE ADAMS VETNAM』 150ページより、AN UMBRAGE EDITION BOOK、30.5x23cm判、223p.、2008年刊、ISBN -13:978-1-884167-72-0、US $ 50≫ こちらの書籍は、ベトナムでの写真で全体が構成されています。

f:id:ilovephoto:20201027154908j:plain

≪写真は、『EDDIE ADAMS BIGGER THAN THE FRAME』 208ページより、UNIVERSITY OF TEXAS PRESS, AUSTIN、27x25cm判、354p.、2018年刊、ISBN 978-1-4773-1185-1、US $ 60≫ 1枚のピューリッツァー受賞作品の前にはそこに至るまでの経緯を示すようにアダムズが撮影した連続した写真がどちらの本にも掲載されています。BIGGER THAN THE FRAMEには、1983年から2002年までのパレード誌の表紙写真、プレスカメラマンとして撮影したジョン・F・ケネディビートルズの写真なども掲載されています。

f:id:ilovephoto:20201026204653j:plain
≪エディ・アダムズ、2000年8月、神田神保町三省堂地下「ローターオクセン(放心亭)」にて、ライカM6TTL、ズミクロン35mmF2、NP400-PR、Photo by Y. Ichikawa≫

f:id:ilovephoto:20201027232125j:plain

≪エディ・アダムズと会食後に写真を撮らせてもらった時の同じフィルムのすぐ隣のコマに、撮影日は異なるのに新藤健一さんと澤田教一の弟さんが写っているのです≫

 ところで、なぜエディ・アダムズが日本なのでしょうか。少なくとも澤田教一、酒井淑夫とは、AP通信社、ベトナム戦争従軍カメラマンという共通点があります。『二人のピューリッツアー賞カメラマン「戦場」、澤田教一・酒井淑夫写真集』には、エディ・アダムズが『撮らなかった写真』と題して従軍カメラマンとしての立場から写真の必要性を1ページにわたって寄稿しています。

 エディ・アダムズにとって澤田教一とはどういう存在だったのでしょうか?それぞれの所属、出身国は異なっても各社の写真家は強い絆で結ばれていたといわれています。それは前線の兵士が日夜死の恐怖に直面していたのと同様、彼らも同じ状況の中で仕事をしていた必然でもあったのです。彼はそうしたさなかに澤田を失いました。エディ・アダムズは、澤田の作品を高く評価しており、3年先行した澤田の受賞を自分のことのように喜んだといわれています。Kyoichi Sawadaの名は、ベトナムで失った他の5人の仲間(ラリー・バローズ、アンリ・ユエ、ヒュン・タン・ミィ、ミシェル・ローラン、ケント・ポター;Larry Burrows, Henri Huet, Huynh Thanh My, Michel Laurent, Kent Potter)とともにエディ・アダムズ・ワークショップの広大な敷地の一角に据えられたテーブル形の石碑に刻まれています。

f:id:ilovephoto:20201102203321j:plain

≪ニューヨークにあるエディ・アダムズ・ワークショップの敷地の一角に据えられたテーブル形の石碑。背後はワークショップの建物(もとは酪農家の大型納屋とサイロ)。Photo by Hank Nagashima≫

f:id:ilovephoto:20201102203531j:plain

≪30年の時を経て苔むしていますが、石碑にはベトナム戦争で亡くなった澤田教一ほか、Larry Burrows, Henri Huet, Huynh Thanh My, Michel Laurent, Kent Potterら5人のカメラマンの名前が刻まれています。Photo by Hank Nagashima≫

 ■半世紀を過ぎた日本人ピューリッツアー賞作品は
 かつて日本人の報道写真家、長尾靖、澤田教一、酒井淑夫の3人がピューリッツアー賞の写真部門を受賞した1960年代から半世紀を過ぎました。今日まで、その間ピューリッツアー賞の授与は続いているのですが、調べてみると日本人でピューリッツアー賞をとったのはこの3人しかいないのです。いずれも、アメリカの通信社であるUPI(United Press International)とAP(Associated Press)通信に関係した写真が受賞したわけですが、この先、これらの作品がどのような形で継がれていくか興味あるわけです。今年2020年は、澤田教一没後50年であり、少なくともこの時期、日本カメラ博物館に澤田教一のカメラ機材、写真などが収蔵されたことにより、もう一度過去のピューリッツアー賞作品を呼び起こすことになったのは意義あることです。このようなことがなければ、私自身がピューリッツアー賞作品についてまとめることのきっかけになったわけで、ありがたいことだと思うのです。
 なお、ベトナム戦争を代表するもうひとり日本人の報道写真家として岡村昭彦(1929~1985)があげられます。岡村は1962年PANA通信社の特派員となり、ベトナム戦争を取材しライフ誌に掲載され、アメリカ外人記者クラブ海外写真部門賞を受賞。1963年にはUPI通信東京支局の沢田教一と出会っています。岡村のベトナム戦争関連の写真集は「これがベトナム戦争だ」(毎日新聞社刊、1965)を始め多くの書籍が出版されています。晩年ホスピスなどの問題に取り組み、現在は静岡県立大学に岡本の関連書籍・文献約18,000冊が収蔵され「岡村昭彦文庫」として開設されています。
 最後に本文をまとめるにあたっては、澤田教一と酒井淑夫2人の関連資料提供と話をしてくださった元共同通信社・新藤健一氏、エディ・アダムズと個人的に親交の厚かった元タムロンの長島久明氏にも資料提供並びに事実確認で大変お世話になりました。この場を借りて深く御礼申し上げます。 (^^)/