写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

「世界のライカ型カメラ」展

 世の中にはさまざまなライカ類型機が存在します。そのライカ型カメラを集めた「世界のライカ型カメラ」展が日本カメラ博物館でスタートしました。

 ライカ型カメラというとさまざまでして、外観・機能までそっくりなもの、その考えを受け継いだもの、一部を引用しつつ独自性を持たせたものなどとさまざまですが、日本では、1935年に発売されたハンザ・キヤノンが最初とされており、このほかにニコン、ニッカ、レオタックスなどがよく知られ、さらにオーナー、タナック、チヨカ、コニカミノルタ、メルコン、シモール、イチコンなどがあります。また海外に目を向けて見ますと、ドイツは言うに及ばず、アメリカ、イギリス、イタリア、オーストリアチェコスロバキヤ、ソ連、中国など幅広い国々にわたっています。日本は、1954年に発売された「ライカM3」を契機に徐々に35mm一眼レフの開発・製造へとシフトしていき、1960年代中ごろには生産数、金額ともドイツを凌駕するまでになり、今日までカメラ生産では世界のトップを誇っているのはご存じのとおりです。会場には、戦後日本の各モデルに加え、各国のライカ型カメラと最新のフォクトレンダー機や安原一式、さらにデジタルカメラまでが所狭しと飾られています。もちろん、展示では本物ライカのあれこれも見られます。

《展示の圧巻は、ハンザ・キヤノンからキヤノン7までを集合させたキヤノンコーナーのカメラ群です。中央は、精機キヤノンの引伸機。フォトグラファーの中村文夫さんによると“キヤノンオリジナルが佃煮状態”だそうです》

《僕の注目は、中国の紅旗20とレンズ。単なるコピーではなく、裏蓋は蝶番式になっています。》
■講演会■ 5月17日(土)、写真家の田中長徳氏による『田中長徳“らいか”を語る』の講演会開催。申し込みは:(03)3263-7110

 ●ライカコピー余話●
 カメラの世界でライカほどコピー製品が多く作られたものはないだろう。それだけライツの技術が高く、対抗製品が作りにくく、コピーするよりほか競争する手段がなかったことは確かであろう。しかし、これほど世界中でコピー機が作られ、ライツが「降り懸かる火の粉は払わねばならない」とコピー機を法的に止めようとして止められなかったのにはそれなりの理由があったのである。「1930年代の後半から40年代の初め、第2次世界大戦の黒雲が世界を覆い始めた頃、敵方の情報を集めるのに、小型カメラほど有効な手段はなかったんだよ。各国とも国家の威信を掛けてライカを集めようとしたわけだ。ほかに粗い扱いをしても故障せずに良い写真を撮れる機械は何処にもなかったからね」とニューヨークで最も大きく、最もプロカメラマンたちから信頼されていた「プロフェッショナル・カメラ・サービス」のオーナー、マーティー・フォーシャは当時をふり返りながら話す。
 「もちろんライツも、当時のナチス政権も自分達の持つ技術が、戦争の最強の武器であることは十分承知していたよ。だから、戦争の気運が高まった1930年代の最後にはライツ製品の禁輸に踏み切ったんだよ」。結果は当然だが、世界中でライカに代わるカメラを何としてでも作らざるを得ないことになり、独創的なものが簡単には作れないとなると、コピー製品を作らざるを得なかったし、ライツやナチス政権が何を云おうと、耳を貸す気など全くなかったのである。アメリカでもライカのコピー製品は多く作られた。それだけではない。ありとあらゆる手段でライカをかき集め、戦場にもって行ったし、激しい使い方をされるのは分かっているから、優秀なライカ修理技術者をかき集め、戦場に送り出したのである。マーティー・フォーシャも若いとき狩り出されたライカ修理の腕っこきの1人であった。
 「これはライカコピーに直接関係ないことだけど」、マーティー・フォーシャは言葉を継いだ。「2代目エルンスト・ライツはヒットラーが総督になるとすぐ、多くのユダヤ人を国外に逃がして助けているんだよ。ナチだって熟練技術者は当然必要だったから、ユダヤ人でも技術者と認められた人たちはしばらくの間は迫害しなかったんだよ。ライツはその法的処置を利用して、多くのユダヤ人を雇い、カメラと一時的に生活できるだけの金を持たせて、フランス、英国、香港、アメリカ合衆国などにある支社にカメラの専門家として派遣したんだ。もちろん2度とドイツの地を踏まないことを承知でね。単にライツは会社の仕事のルートだけを利用してユダヤ系の人を逃がしただけではない。彼の娘エルジー・クーン・ライツはユダヤ系の婦人たちをスイスに逃そうとしてゲシュタポに国境で捕まり、命こそ取り留めたが、取り調べで過酷な扱いを受けているんだよ。戦後、ヨーロッパ諸国はエルジーに様々な名誉を授与したけれど、ライツ一家に救われた人たちは少なくても数十人、ある人は数百人はいたと言っているよ」。
 フォーシャの話しを聞きながら、我々がコピーしなければならないのはライツが作り出した革命的な写真撮影機械だけでなく、ライツ一家の高邁な精神ではないかと感じた。確かに日本のカメラ工業はライカの技術を追いかけ、追いつき、そして追い越したけれど、ライツの高い精神性を何処まで理解し、その後を追ったのだろうか。   (木俣拓)

 ノンライツカメラ&レンズ愛好の方々は必見です。