写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

プラウベル マキナ67のニッコール80mmF2.8

 フォトグラファーズラボラトリーの平林達也社長が面白いものを持ち込んできました。プラウベルマキナ67用の“ニッコール80mmF2.8”のレンズユニットなのです。製造年からすると、たぶん補修用パーツなのですが、1ダースほどありました。プラウベルマキナ67は、1970年から1990年代にカメラ・ラボチェーン店を九州並びに関西、関東地方にチェーン店を展開したカメラ卸・小売商であったドイが、1975年に西ドイツのプラウベル社を買収して、1979年にプラウベルブランドで製造・販売した6×7cm判折畳み式のレンズシャッター式カメラなのです。左下にはそのニッコール80mmF2.8のレンズユニットを示しますが、それぞれが日本光学工業のフランジバックデータ付なのです。右は僕の、プラウベルマキナ67ですが、オリジナルフィルターを付けてあります。このほか、オリジナルフード、オリジナル革ケースなどシステムアクセサリーもありますが、ここでの披露は目的が違うので控えます。 (ー_ー)!!

 平林社長は、せっかくあるからもったいないので、何とかならないのかというのです。そこでいろいろ考えた結果、ハヤタ・カメララボの根本泰人さんのところへ持ち込んでみました。根本さんは、現物を見るなり鏡筒と絞りとヘリコイドを付けて商品化しましょうというのです。ということで、かれこれ半年以上前にレンズユニットを預けたのですが、やっとこの時期、試作品ができたと連絡があったのです。それによると、距離計に連動したライカMマウント(写真下左)で、後ろライカMマウント部分を取り外すとM42マウント(写真下右)になるというのです。これはグッドアイディアです。

【ライカMとアサヒペンタックスに試作レンズを取り付け】ライカMはご理解いただけると思いますが、M42アサヒペンタックスは、いまさらと思われるかもしれません。しかしペンタックスKシリーズや各社のミラーレス一眼にはマウントアダプターが豊富にでているので、最新のデジタル機にもいろいろ使えます。レンズは最終的に、絞り数値が刻まれ、専用フードが用意されるそうです。
 実はこのプラウベルマキナ67は、僕にとってはさまざまな思い出があります。まずプラウベル社ですが、ブラウンシュワイクにあったフォクトレンダー社に1895年に入社したヒューゴ・シュラダー(Hugo Schrader)は、5年後フランクフルト・マインに移り、1902年11月にプラウベル社を設立。1906年にはDr.クリューゲナーの娘と結婚、1910年ごろまでにはポケット・ブックカメラ、9x12cmプレシジョン・ペコ、4.5x40.7cmステレオマキナ、4.5x6cmマキナなど独自なカメラを作り出しています。このときのマキナの考えが後に日本で製造されたプラウベル マキナ67に流れているのです。ヒューゴ・シュラダーは1926年に販売と技術見習いとして息子のゲッツ・シュラダー(Getz Schrader)を入社させ、1930年には技術部長に昇格させカメラのデザインを担当させました。1931年には息子ゲッツ・シュラダーを共同経営者として迎え入れ、1939年父ヒューゴ・シュラダーの死後には社長となりました。そのゲッツ・シュラダーには子供がいなく、同社の販売代理業者であった日本のドイグループに会社を売却し、その後も設計部門の取締役として残りました。当時ドイツ・プラウベル社は「マキネッテ67」(右上写真)を1976年に試作しましたがドイの土居君雄社長がなかなかOKをださず、結局、日本の小西六写真工業が「プラウベルマキナ67」として再設計したのです。小西六では、ピッカリコニカやジャスピンコニカ、FS-1などを開発した内田康男さんが担当しました。内田さんは、山登りが趣味で、山用のカメラの開発には人一倍の思い入れがありました。開発は、当時社内で闇研究と呼ばれ、通常の業務を終えて夕方5:00からから行われたと聞きました。
 ではなぜヘキサノンでなくニッコールかと思われるかもしれませんが、ドイツでの試作機「マキネッテ67」のときからニッコール80mmF2.8付だったのです。これは土居社長の思い入れからですが、後の「プラウベルマキナ67W」(1982年)はワイドニッコール55mmF4.5でした。さらに「プラウベル69Wプロシフト」(1982年)のときは製造を担当したマミヤ光機が自社製レンズを性能がいいからと推薦しましたが、最終的にはシュナイダーのスーパーアンギュロンMC47mmF5.6が採用されました。それでは、ライカMによる「ニッコール80mmF2.8レンズ」の実写結果をお見せしましょう。ピント合わせは距離計でも行えますが、最大限レンズ性能を引きだすようにと、ライブビューで撮影しました。

【根本泰人さん】ニッコール80mmF2.8、ライカM(Typ 240)、絞り開放F2.8・1/45秒、ISO400、AWB、撮影距離:約1m。実は複数回、さまざまな場面でシャッターを切りましたが、1コマ目のカットです。ピントは、メガネ越しのまつ毛に合わせましたが、絞り開放でもとてもシャープです。この画像は左右640ピクセルにリサイズしてますが、オリジナル左右5952ピクセルの画素等倍では毛穴までバッチリというわけです。ボケ具合も素直で、もともと35mm判と6×7判では要求解像度は違うのですが、絞り開放でこれだけの描写はさすがニッコールです。ただし、一部逆光気味シーンではフレアっぽさがでました。この時点では試作機ですので、鏡胴内の内面反射対策を施せばかなり改善されるはずですし、F5.6程度まで絞り込むことでも解消します。
 そしてもうひとつ、このプラウベル社とドイを引き合わせたのが、月刊「写真工業」の初代編集長であった北野邦雄さんだったのです。当時北野さんは、土居君雄社長との関係で、1970年代初頭から銀座虎屋隣の黄色いビル(銀座7-8-6、みのりビル)の2階に事務所を構えていました。僕は、ここで様々なカメラの話を勉強させていただきましたが、今考えると、僕の写真知識の業界内の歴史的な部分は、北野さんからの教えによるところが大きいのです。その北野さんが、ある日、面白い話をしてくれました。何でも土居社長が、銀座の知人のビルの一室に箱入り新品の「プラウベルマキナ67」を300台以上預けていたけれど、その知人も土居社長もなくなり、どこにカメラがあるか分からなくなったというのです。銀座のどこかにあるということで、その後関係者が探したが“埋蔵金”のようにわからなかったというのです。それで一部の中古カメラ屋さんはその後も探し続けてもさっぱりだったというのです。ところが、後日意外な話を関係者から聞きました。ドイが2002年に渋谷から撤退するときに、部屋の中に多数の「プラウベルマキナ」が山積されていたというのです。これが北野さんのいっていた埋蔵カメラかどうかは明らかではありませんが、僕としては北野さんの話は本当で、やはり後日発見されたのだと納得したのです。
 というわけで、プラウベルマキナのニッコールレンズがこの時期に1ダースでてきても、僕はびっくりしなかったわけです。このレンズは極めて少ロットですが、根本さんの「ハヤタ・カメララボ」から予定価格16.8万円で発売されました。ハヤタ・カメララボのフェイスブックに詳しいですが、興味のある方は問い合わせてください。
 ところで、ドイは2003年8月に民事再生法の適用を申請。2004年に再生計画が認可されましたが、2006年3月8日に破産しました。しかし注目すべきは、当時の社員たちがその事業を自主的に引き継ぎ現在も専門分野で活躍していることです。その1つが冒頭のフォトグラファーズラボラトリーで、ドイテクニカルフォトの元社員が、今も平林社長の基、銀塩専門のプロラボとして頑張っています。さらにドイツでは旧プラウベルが、ニューヨークでは旧ドイインターナショナルが、やはり当時の社員たちが独自にビジネスを展開しているというのです。そして、これからもプラウベルマキナ67のニッコール80mmF2.8レンズが、デジタルの時代にも使われていくように、いま交換レンズとして設計・製作中であるのです。

☆予約完了☆根本さんからの連絡によると、ハヤタ・カメララボで販売可能な11本は、すべて予約で完了となりました。皆さんの、プラウベルマキナ、ニッコールに対する思い入れの深さに驚きました。なお1本は、レンズユニットとフランジバックデータカードを付けた状態のままの未加工品を、「ニコン100周年記念歴史資料館」(勝手に僕が設定・命名)に収蔵していただきました。