写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

ピッカリコニカの内田康男さん

 いま日本カメラ博物館で「カメラはじめて物語」という特別展が10月23日(日)まで開かれています。一番最初にAEを組み込んだカメラ、一番最初にストロボを組み込んだカメラ、一番最初の手ブレ補正カメラ、一番最初のデジタル一眼レフカメラなどなど、とにかく最初に新しい技術を実装したカメラを一堂に会して展示してあります。

 そんなある日、かつて小西六におられた内田康男さんが僕の不在時に来館されたことを聞き、後日改めてお会いしましょうと連絡を取りました。そして久しぶりにお会いして、いろいろなお話しをお伺いすることができました。ご存じの方もいらっしゃるかも知れませんが、内田さんは小西六写真工業で、コニカC35EF(ピッカリコニカ、1975年)、コニカC35AF(ジャスピンコニカ、1977年)などの大ヒット商品を続々と作りだした方で、カメラ技術においては一時代を作り上げた人です。もちろん作るカメラがすべてヒットしたというわけではありませんが、クォーツ時計によるオートデート機構を組み込んだコニカC35EFオートデート(1978年)、フィルム自動装填、自動巻き上げ内蔵のコニカFS-1(1979年)などの開発に携わり、その後の各社カメラの在り方を大きく変えた人でもあります。このときの開発方向は、今でもおぼえていますが、ユーザーが楽に写真を楽しめるのはどういう方向かといったことを、いつも考えていたようでした。ストロボを組み込めば失敗のない撮影領域が広がる、オートフォーカスを組み込めばピンボケのない写真が撮れる、オートデートで日付のセット忘れを防止できる、オートローディングでフィルム装填ミスがなくなれば、という姿勢でした。あの当時のコニカは大衆カメラに作り方の答えがわかったように、次々とヒットを飛ばしたのですが、一眼レフのFS-1でつまずきました。CPU制御のチップを国産化したところに問題があったのではと僕は当時考えていましたが、内田さんによると一眼レフは販売体制を含めてコニカには向かなかった、ということだったようです。とはいっても、それは今から30年以上も前のこと、そのコニカコニカミノルタになり、コニカミノルタはカメラもフィルムもやめてしまいました。

◇左から、ピッカリコニカのC35EF、ジャスピンコニカのC35AF、ザ・ワインダーのコニカFS-1
 内田さんは1931年生まれ、東京工業大学工学部機械工学科を卒業され、小西六に入社されています。学生時代からの趣味は山岳写真だそうで、現在80歳になられるわけですが、先日も「北八つ」(北八ヶ岳)の稲子岳(約2,400メートル)に登ったというから恐れ入ります。現在も、アマチュアの写真団体3つをご指導され、別に山岳写真の団体にも顔を出されているそうです。ご自身の写真のライフワークは、ご自宅近所の雑木林での早朝からの撮影だそうで、雑木林の写真展を最近3回も開いたそうです。特に日の出とともに輝くクモの巣は素晴らしく、でもクモの巣にピントが自動的に合うカメラはなかなかないそうで、マニュアルで合わせているとか。そして内田さんを写真のとりこにしたのは、中学生時代から始めた現像・プリントで、今でも画像が浮き上がってくるときの醍醐味は忘れられないそうです。それから70年近く経ち、今も変わりなく写真を楽しんでいるとのことですが、アマチュアの人々と接していて思うのは、あの現像・プリントの楽しみが写真というホビーの中で忘れ去られているのではないか、またメーカー技術者にしてもそのあたりに向けた商品開発があってもいいのでは、ということでした。僕としては、最近のインクジェットプリンターではメディアを差し込むだけで、L判からA4までのプリントがパソコンが使えなくても楽しめるし、素晴らしくきれいにプリントしている方々を目の当たりにしていることを伝え、さらにインクジェットプリンターから徐々に絵がでてくるのは、かつての現像液の中で画像が浮き出てくる瞬間を見るのと同じですねと伝えると、まったくその通りと、2人で大いに気炎を揚げたのでした。そういえば、内田さんは2年ほど前あるカメラ雑誌で亡くなられたと紹介されていたことをたずねると。『そうなのです。まったくライターさんの思い違いだったのです。』というわけで大笑い。一度亡くなられているから、これからはもっと長生きするのではと僕は思ったわけです。