写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

写真家・北代省三を知っていますか?

 12月もそろそろ中旬になろうかという時に、川崎市岡本太郎美術館学芸員の佐藤さんから「北代省三の写真と実験 かたちとシミュレーション」という特別展をやっているから見に来ませんか、というお誘いをいただきました。

《左:美術館入り口、中は広いのです。右:最寄駅小田急向ヶ丘遊園駅から約20分くらい、歩きながら遠いなぁ!、岡本太郎の作品“座ることを拒む椅子”みたいだとか考えながらやっと到着。館内に入ったら、さっそくその椅子を見つけて、うれしさのあまり1枚撮らせてもらいました》
 北代省三さん(右写真)というと、1970年代の初めごろ、雑誌「写真工業」で、造形と建築について、大判カメラのアオリ、大判ピンホールカメラの話、ラジコン飛行機で空撮、風車を使った超広角レンズ・ハイペルゴンなどなど、さまざまな表現にかかわるテクニカルなことを解説してくれた写真家なのですが、その後なぜかぴったりと写真の世界からは表立った活動は見えなくなりました。風の便りには、デザイン分野で活躍されているというようなことは聞きましたが、消息がぷっつりと切れ、僕の記憶の中でもかなり希薄な存在となっていました。ところが40年近くたってから、北代さんの特別展を見に行って、改めてびっくりしました。それというのも、僕の記憶では大判カメラのアオリを理論と実写で解説してくれた写真家という印象が強かったのですが、特別展を見ているうちに、ラジコン飛行機での空中写真撮影、超広角ハイペルゴンレンズ、ピンホールカメラなどの解説を受けたこと、またそれらを原稿に書いていただいたことを一気に思い出したのです。

《特別展、最初のコーナーには、機械をイメージさせる写真、立体造形物、模型飛行機、凧など北代省三さんを代表する作品が集約展示されています》
 当時の編集という仕事は、いまから見るとのんびりしたもので、電話をお宅に入れて、大体の目的を告げて訪問し、原稿依頼の趣旨をお話しし、著者の考えるところを聞き、そこで原稿用紙を置いてお願いしてくるわけですが、さらに1ヵ月ぐらい後に原稿を受け取りに改めて訪問するのです。当時、北代さんは中野区の江古田にお住まいで、お伺いすると良く陽の当たる書斎を兼ねた仕事場で、天井からモビールや模型飛行機が釣り下がっていて、そこでカメラやレンズさらには模型飛行機など、それらで写した作品を前にやさしく解説してくれたのです。その解説が、執筆原稿の内容となるのでした。編集者としては、わからないことがあればその場で聞き、先生は現物をもって解説してくれるというわけです。そんなわけで、僕自身の写真人生において、北代さんはかなり大きな影響力を持っていたのだなと改めて知らされたのです。一例をあげると、模型飛行機による空撮であり、ハイペルゴンレンズ、ピンホール写真など、その後も積極的に誌面へ反映させ、ときには僕自身のホビーとなったりと、改めてびっくりしました。

《写真作品、左:かたち(1956〜1958)、右:ラジコン飛行機による空撮(1972)》

《左:ピンホールと超広角ハイペルゴンレンズのための自作8×10インチカメラ(1960年代)、右:ピンホールカメラで撮影した風景、女優范文雀のヌード(1976、CAMP、工作舎
 結局、僕の知っていた北代省三さんは、特別展「北代省三の写真と実験 かたちとシミュレーション」を見ると、北代さんの作品のうちほんのわずかな断片であることがよくわかりました。北代さんは1921年に東京に生まれ、2001年に亡くなられましたが、1950年代に前衛的な芸術グループ「実験工房」に所属し、絵画、モビールや写真、などを手がけています。その過程で、アサヒグラフのコラムを写真家の大辻清司さんと担当したり、企業のポスターやPR誌の表紙などを幅広く手掛け、さらにはアサヒカメラで連載を行ったり、コマーシャルフォトへなどと執筆活動を続け、最終的に『模型飛行機入門』(美術出版社)という本でひとつの頂点を迎えたようです。それにしても、どうして写真界から足を洗ったのだろうかと前から思っていたのですが、写真というのがカメラにしてもフィルムにしてもどうしても企業とのかかわりは避けられないというあたりが、当時お話をうかがっていた時に何となく感じていたのですが、今回の企画展を見て、作品全体の流れ、さらには大阪万博の企画時に参画し、日本の成長を目の当たりにしたあたりから、静かに身を引いて行ったというのを僕なりに納得できたわけです。なお、特別展「北代省三の写真と実験 かたちとシミュレーション」は、2014年1月13日まで、膨大な作品群ですが、ご興味のある方はぜひどうぞ。