写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

福島辰夫さんの会に参加して

 2012年写真の日の日本写真協会賞・功労賞受賞者に福島辰夫さんがいました。その選考理由は『「福島辰夫写真評論集」で集大成された多角的な評論の数々や展覧会のオルガナイザー、ディレクターなど、長年にわたる幅広い活動により日本の現代写真に大きな道すじを引いた功績に対して』と簡潔なものでしたが、その主たるものは窓社から発刊された全三巻にわたる「写真評論集」に対してのことだろうなと思っていました。そんなときに、学生時代の写真部の後輩であり、フォトグラファーズラボラトリーの社長である平林達也さんから、「福島辰夫〈本年度日本写真協会功労賞と写真出版〉を祝う会」を写真家・細江英公さんと8月9日に一橋の如水会館で開くからという連絡をもらいました。その発起人は、川田喜久治、丹野章、東松照明奈良原一高細江英公、全日本学生写真連盟有志、四九一有志となっていました。そのうちの写真家先生方は福島さんが1957年に開催した『10人の眼』展に出品された方々でしたが、全日本学生写真連盟有志、四九一有志というのを見て、いまから40年以上前のできごとを一気に思い出しました。僕が、大学写真部の時代は全日本学生写真連盟の関係から、他大学に出向くわけですが、お茶の水にある明治大学の学生会館(70年代初頭に封鎖され、その後取り壊されました)での会合に出席すると、学生写真連盟の代表とともに長机の脇に座っていたのが福島辰夫さんだったと記憶しています。1968〜69年ごろのことで、当時福島さんは明治大学写真部の顧問だったようですが、あまりにも時間が経ったために、何がそこで討議されたかは、はっきりとおぼえてはいません。僕の1年先輩で新潟に住むKさんは、今年の春に開催した僕らの大学写真部OB展で会ったときには、昔を全日本学生写真連盟とか、明治大学写真部がとか明るく語っていましたが、何となくトラウマになっている感じでした。というのもKさんは、当時クラブでは渉外担当で、いつも他大学へ出向かなくてはいけない役割だったのです。

≪ずいぶん贅沢なパーティーで、発案、司会から記念写真のアングル決定までのすべてを細江英公さんがほとんどひとりで取り仕切った感じでした。写真は、祝う会で三本締めを行っているところ。左から、福島辰夫さん、奥様、細江英公さん≫
 そしてもうひとつ四九一有志とありましたが、こちらも懐かしい名前でした。当時は何だかわかりませんでしたが、僕と同じ年で、幼稚園の同窓でもあり中学からから大学まで別の学校であっても、ともに趣味を写真としたH君がいました。僕は70年の3月に卒業しましたが、彼はカメラを持って大学紛争に巻き込まれ、卒業までかなり時間を要しましたが、その当時熱く語っていたのが、写真活動としてのグループ“四九一”でした。H君によれば、夏休みを利用して北海道へグループで行き、日本写真の開祖ともいわれた田本研造のことを追いかけ、開拓時代の写真を発掘して歩いたり、川田喜久治さんの地図や、東松照明さんの〈11時02分〉NAGASAKI、などの写真集を前に熱く語っていたのを思いだしました。そこにいたのはやはり福島辰夫さんであったわけです。今回の祝う会の、案内状をコピーとり、僕もいるからと案内をだしましたが、H君は顔をだしませんでした。そして、会の当日、会場受付には若い女性が沢山お手伝いしていましたが、僕より40年ぐらい後輩の写真部部長を務めたS女史もいました。3年前のOB写真展で会いましたが、意外なところで会ったのにはびっくりしました。なんでもその直後に結婚したそうですが、ご主人もこの会場で祝う会を手伝っているというのです。そういえば2005年頃に、電気通信大学辺りでいろいろな大学生が集まって合同写真展を開いていましたが、あれを指導していたのも福島辰夫さんであったわけです。いやぁすごい、40年以上にわたって大学生の写真を指導してきたのですから、驚きました。ちなみに、なぜ491なのでしょうか? 当日出席の491/OBの方にきいて何となくわかりました。何でもある作家がニューヨークに事務所を構えたときの住所が291で、ヨーロッパに構えたときが391で、日本に構えたら491になっただろうかということでした。