写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

写真家 芳賀日出男さんとの思いで

 「巨星墜つ」とはまさにこのようなときに使うのでしょう。民俗写真家の芳賀日出男さんが去る11月12日に102歳でお亡くなりになったと、ご子息 芳賀日向さんから連絡をいただきました。日向さんによると、芳賀日出男さんは「人間(じんかん)至る処に青山あり」(人間の死に場所はどこにでもある。世の中を広くわたって大志を抱きたい)が口癖だったというのですが、私は仕事柄さまざまな写真家の先生方と知り合ってきましたが、芳賀先生からはお会いするたびに暖かな両手で握手をされて、励ましの言葉をいただいてきました。実は訃報を知る1年ほど前に、生誕100年ということで、私なりに芳賀日出男さんとの思い出を写真とともにまとめていたので披露します。

■生誕100年記念の写真展

 民俗写真を撮る写真家芳賀日出男さんが生誕100年を迎えたということで、2021年12月にキヤノンギャラリー銀座と2022年2月に大阪で “芳賀日出男生誕100年記念” として「日本の民俗」写真展が開かれました。
 芳賀さんには、私が編集者時代にライカで撮った作品とともに原稿をいただくときに何かと目をかけていただきました。それに加えて月刊「写真工業」で2008年2月号から4ヵ月にわたって『祭りと民俗を撮る芳賀日出男』というタイトルでフォトジャーナリストの新藤健一さんが、取材したときの86歳までの芳賀さんのお仕事を克明に紹介したことがきっかけでした。
 その過程で一番印象に残ったのが、新藤さんはじめ多くの写真家とジャーナリストとともに2008年の2月に伊豆高原のホテルに泊まり込み、芳賀さんがなぜ民俗写真を撮るようになったか、誰の影響を受けたかという話を写真を交えて聞いたことは、いま考えると素晴らしい勉強会でした。

 芳賀さんは1921(大正10)年に父親が満鉄に勤めていた時に中国大連に生まれ、18歳の時に日本に来て慶応義塾大学文学部に入学し、中国語を少し話せたことから中国文学を学んだというのです。大学は学徒出陣で1944年に卒業し、海軍に入隊して戦後は1947年から日本通信社に勤務した後、1952年父親の故郷である福島に行き正月の行事を見て、ここで民俗学者柳田国男折口信夫のいう祭事がたくさん行われていて、民俗の写真を撮れば、喰えるかどうかはわからないがと民俗写真を撮りだしました。1955年には人類、考古、言語、宗教、民族、民俗、社会、心理、地理の九学会連合会の奄美大島共同調査の写真スタッフとして加わり、奄美諸島の写真を撮り、1956年には「奄美の島々」毎日新聞社、1957 年には「珊瑚の島々」平凡社、1959年には「田の神 日本の稲作儀礼平凡社、などを出版し写真展を開いていますが、1985年には芳賀ライブラリーを開設し、現在はご子息の写真家芳賀日向さんが引き継いでいます。

 勉強会では、芳賀さんと民俗学者宮本常一との関係、さらには一緒に九州を旅したときの写真を前に熱く語られましたが、1962年にはオリンパスギャラリーで「宮本常一と歩いた九州」というテーマで写真展を開いています。

オリンパスペンをメモ代わりに使う宮本常一(1962)を語る≫

長崎県五島の三井楽(みみらく)の隠れキリシタンの墓について語る≫
 その後、幾度となく芳賀日出男さんにはお会いしていますが、2022年のキヤノンギャラリー銀座の展示にはご子息日向さんと顔をだされ、大阪会場へはコロナのまん延防止法措置のためにやむなく中止されたようですが、東京でお元気に過ごされているだろうと思っていた矢先に、お亡くなりになったと知らせを受け、改めてご冥福をお祈りするしだいです。合掌。

 

≪フォトギャラリーシリウスにて、2008年1月、右から、芳賀日出男さん、杵島隆さん、木村惠一さん、芳賀日向さん≫

≪写真弘社フォトアート銀座にて、新藤健一緊急レポート「東日本大震災の現状」展、左:芳賀日出男さん、右:新藤健一さん≫