写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

大賀典雄さんとカメラ

 ソニーの元社長大賀典雄さんが去る4月23日に多臓器不全のため81歳で亡くなられました。多くのマスコミが報じたのはソニーの社長であった時代の功績と音楽家としての部分がほとんどであると思うのですが、ここでは“カメラにこだわる”のタイトル通りに大賀典雄さんとカメラのことについて記しておきたいと思います。
 ソニー歴代社長の写真好きは良く知られていますが、大賀さんも例外ではありませんでした。実は僕は1992年の春ごろ、大賀さんにお会いしているのです。その理由は、当時各社から新規格フィルム構想がいくつか噂されていましたが、ソニーからも新規格フィルムの特許がでていたのです。そこで、ソニーにその真意を問い合わせるために取材申し込みをしたところ、大賀社長ご自身が快く取材に応じてくれたというわけです。当初は、30分の予定でしたが、いろいろお話ししていただくうちに、あっという間に予定をオーバーして2時間以上にもおよびました。そのときに撮影させていただいたのが、右の写真で、当時ソニーの提案した新規格フィルムに対応させた試作カメラであるゼンザブロニカETR Siと新規格フィルムに合わせたフィルムバックを手にしてもらいました。
 ソニーの新規格フィルムは結果として実現はしませんでしたが、大賀さんはお会いしたときに、音の世界を例にとって「1881年エジソンの円筒型蓄音機の発明以来、1887年のエミール・ベルリーナの円盤レコード、SPレコードの普及時代を経て1948年のLPレコード、1957年のステレオレコード、現在ではCD盤の全盛を迎え、この約100年の間に4回も技術革新があった。写真も映画フィルムの誕生から100年以上経ったいま、より画質が高くなる方向で変革があってもよいのではないだろうか」ということを熱く語られいていました。その結果、考え出されたのが35mmフィルムを片パーフォレーションにして、ライカ判の画面サイズが24×36mmであったのを画面サイズの大きい30×40mmのハイビジョンサイズにしたらどうかというものでした。この新規格なら、同じ35mm幅フィルムを使うということでは生産設備も流用できるので効率もよいということです。ハイビジョンサイズは当然将来を見越してということですが、この標準サイズのバリエーションとして特許(USP 5,049,908)ではハーフサイズやパノラマサイズも提案されていました。技術的な細かいことは、当時の月刊「写真工業」1992年8月号と9月号にくわしいので、ここでは省略させてもらいますが、当時の試作カメラとフィルム、さらにその撮影結果を示したのが、下の写真です。

 その後、大賀さんにはお会いしていませんが、現役を退かれた後に、大賀さんがライカで撮影した指揮者の写真をライカの本で見てから、今度はライカでお話しを聞いてみたいなと考え、担当の方に問い合わせてみて、正式な依頼があればセッティングするというお話しをいただきましたが、残念ながらかないませんでした。ところが偶然に大賀さんのことをさらに知る機会が2010年にやってきました。元ゼンザブロニカ工業で、D型の試作機からSQ Aiまで一連の設計を手がけられたという進藤忠男さんにお会いしたのです。そのときまで僕は不思議に思っていたのは、ゼンザブロニカETRは1976年北の丸公園科学技術館で開かれたプロフェッショナルフォトフェアでの新製品展示の時、確か解説員が“ソニーのデザイン”だといっていたが気になっていたのです。ところが、その後どの文献を見ても、ソニーがETRをデザインしたとは書かかれていないのです。そこで進藤さんにお会いしたときにお聞きすると、「そうですよ」と簡単に答えてくれました。なんでも、大賀さんは当時ゼンザブロニカ工業社長の吉野善三郎氏と親交が厚く、カメラのデザインをしたいという大賀さんご自身の申し出により実現したようです。実際、デザインしたのは当時ソニーの長友課長という方だったようですが、吉野善三郎氏はわずか1カ所フィルム巻き上げノブにつまみを設けるよう設計変更を依頼しただけで、デザインはまったくソニーから示された通りでだったそうです。さらに進藤さんによると、大賀さんはすでに1957年ごろには吉野善三郎氏と知り合っていて、ゼンザブロニカにはよく顔を出していたようです。さらに、吉野善三郎氏のお父さんである善蔵氏の主治医であった東大病院・松原先生のお嬢様が、後に大賀さんの奥様となったピアニストの緑さんということだそうで、当時を知る進藤さんは、大賀さんが松原先生のお住まいであった同潤会江戸川アパートへよく出かけていたのを見かけたそうです。吉野善三郎氏と大賀さんはいろいろお付き合いがあったようですが、1964年10月ブロニカが1億400万円の手形不渡りを出すと、発行株式の1/3を引き受けて支援してくれたそうで、当時ブロニカのヒット商品であるガスの見えるガスライターの一部に金属のカバーをかぶせソニー坊やを機械彫刻したものを3万個も注文してくれたそうです。そういえば、1992年当時ソニーの方が、うちの資本の入ったカメラメーカーがあるといって見せられたのが、ゼンザブロニカETR Siでした。これで僕の気になっていた謎もすべて氷解しました。なによりも大賀さんが実業家、音楽家であると同時に、写真というか、カメラも大好きであったということを知り得ている事実だけで記してみました。合掌。