写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

ゼンザブロニカ カメラ開発秘話

戦前から戦後にかけて一人の熱烈なカメラファンがいました。その名は吉野善三郎。戦後、板橋区に「新光堂製作所」を創立、ライター、シガレットケース、コンパクト等を製造、着々とカメラ開発のための資金作りに勤しみます。そして念願のカメラ開発に着手したのが1952年、さらに4年の歳月を経た1956年、ついに「ブロニカカメラ(株)」を設立し、試作第1号機を完成させたのです。この間カメラ開発に直接たずさわってこられたのが進藤忠男さんです。
その進藤忠男さんが、去る1月20日光交流会の第251回オプトフォーラムで「ブロニカ草創期を語る〜カメラ開発秘話」として講演をされました。この光交流会は光学関連企業の異業種交流会で、設立は1988年と古く、現在は最新の光学技術に関係する企業の集まりですが、それぞれの会社のルーツはカメラ部品の製造に関わったのが多いのも特徴です。僕は設立当初からのおつきあいで、最近はサポーターとして、何かイベントがあると顔を出してきました。右上写真はゼンザブロニカDを手に解説する進藤さん。
当日は、約2時間、進藤さんは写真、図面を交え、ご自身と設立者吉野善三郎氏のこと、さらに独自性たっぷりで最初のモデル「ゼンザブロニカD」開発の経緯など、お話ししてくれましたが、ブロニカシリーズすべてを語るにはあまりにも時間が足りませんでした。その中からいくつか個人的に興味あるお話しを箇条書きにしてみました。
1)ニッコールレンズ75mmF2.8は米軍航空写真用を6×6に改良(1956.10)、2)カメラデザインはKAKデザイングループへ委託、3)カメラの名前決まらずネームプレートは後付へ、4)カメラ名は遊星歯車の「プラネット」を考えていたが、ブローニーフィルムを使うカメラであることから「ブロニカ」、身近に寄席にいる人間がいたので前座をつけ、善三郎にも語呂が合うので“ゼンザブロニカ”と決定(1959.02)、5)フィラデルフィアショーでデビュー(1959.03)、6)東京産業見本市で一般公開(1959.05)、7)国内発売は1959年12月8日(開戦記念日)、128,000円、8)1960年1月、スエーデン大使館より意匠侵害のクレーム(認識としては外観が似ていても機構が違えば問題ない、当時35ミリカメラ、二眼レフなど多くのメーカー製品が似ていたが、ブロニカが最初の犠牲者になる)、9)生産約2,600台で打ちきり(国内800台販売、1800台アメリカ)、10)D型の生産は11ヵ月、屋上でハンマーでつぶす。

このほか当日僕は、前から記憶していた「ブロニカETR」はソニーがデザインしたのだということを最終確認したかったのです。このソニーがデザインしたということは、当時北の丸公園科学技術館で開かれたプロフェッショナルフォトフェアで参考展示されたとき、解説員がそのように言っていたこと、さらに後日ソニーの大賀さんにお会いしたときに、そのお話しを聞きましたが、現在はどこにも記述がなく、単なる僕の記憶の範囲でしかなく残念な思いをしていました。それが進藤さんからかなり詳細にお話しを引き出せたのは大収穫でした。

【進藤忠男さんプロフィール】1928年10月生まれ:東京市浅草区の洋服仕立業の長男(1人っ子)、1952年5月:ブロニカの前身新光堂製作所に就職、初期カメラゼンザブロニカ通称D型設計担当、1960年2月:デザイン問題でカメラ製造打ち切り、資金稼ぎにガスライター開発担当、1961年1月:透明ボディのガスライター発売が大ヒットし4月次期S型カメラ発売の資金ができる。この間はカメラ部・ライター部の組織割り・圧電子ライター開発等に携わる、1976年7月:取締役事業部長就任、1977年7月:労務対策のためIOO%協力工場の協進光学(株)の常務取締役として就任、1978年7月:ブロニカ(株)を設立し協進光学(株)との姉妹会社となる、1985年5月:協進光学(株)の代表取締役に就任、1995年7月:ブロニカ(株)は(株)タムロンへ会社売却、協進光学(株)は(株)タムロンへの供給に変更、2003年12月:シャッター・LSI等、供給会社は、非採算合理化生産打ち切り、供給も終了、2004年2月:会社を整理し退任約52年間ブロニカに携わった唯一の生き残り

進藤さんのお話を聞いて感心したことは、吉野善三郎氏のカメラに対するこだわりが並ではなかったこと、創業時代の技術者の柔軟な頭脳と実行力などなど、現在、御歳82歳とは思えない、記憶力とレスポンスの良さ。僕自身もまだまだこれからだと襟を正した次第です。なお、ブロニカのカメラに関しては、タムロンのホームページwikipediaにくわしいのでそちらを参照していただきたい。