写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

時の忘れ物

 東京板橋区の区報に『平成23年2月23日 水曜日、板橋区前野町二丁目36番工場跡地で直径36cm、長さ150cmの米国製500ポンド(250kg)の不発爆弾が発見され、平成23年3月21日(月曜、祝日)午前9時30分から不発弾処理が行われる』という告知が載りましたと、板橋区に住み、光学産業史を研究されているSさんから連絡があったのです。Sさんによると、「前野町二丁目36番」というのは、元旭光学工業の土地で、それ以前はキヤノンの土地であったというのです。僕自身も確かそのような記憶だったのですが、改めてこの時期に再確認しておくのも歴史的に意義あることではないだろうかと思いくわしく調べてみました。古い文献によると、たしかに“前野町二丁目36番”は旭光学工業の本社でした。古い文献というまでもなく、HOYAに合併されてからも少しの間まだその場所はペンタックスだったのではと考えられます。歴史的に旭光学は1919(大正8)年まで創立をさかのぼることができますが、1980年に貿易之日本社から発行された『旭光学−80年代に飛躍する一眼レフのパイオニア』によると、旭光学は敗戦に伴っていったん解散し、1948(昭和23)年に、大山工場(1940年竣工)を主力工場に双眼鏡「ジュピター」と天体望遠鏡の生産に着手し、1952年には35mm一眼レフの「アサヒフレックスI」が好調なためキヤノン板橋工場の敷地と建物をそのまま買い取り、旭光学の本社並びに東京工場としたというのです。またキヤノン板橋工場は、1944年東京市志村前野町980番地(現板橋区前野町2丁目36番9号)にあった双眼鏡メーカーである(株)大和光学製作所が合併して精機光学工業(株)板橋工場と改称しています。当時の精機光学工業は目黒に本社を置いていたのが、1951年大田区下丸子に本社工場移転の時点で、目黒工場の一部と板橋工場は売却(1987年刊『キヤノン史−技術と製品の50年』より)されているのです。このうち旭光学の本ではキヤノンから購入したということは年表などにはなく、一部の文章の端にわずかに消され残っているという感じで、キヤノン史で売却は明記されていても、売却先はまったく触れられていないのです。ただ、このあたりは戦前からの板橋の光学史を研究しているSさんにとっては、事実として見聞きしてきているわけですから、本当なのでしょう。
 いずれにしても米国製250キログラム爆弾はいつ頃投下されたのでしょう。たぶん1945年の終戦直前ということになるだろうと思いますが、キヤノン史では下丸子への本社移転は不燃性工場を求めてと強調されているあたりが、木造の板橋工場で何かがあったのではないだろうかと推測するわけです。そして、先日ある光学メーカー勤務のCさんから「父が戦前、板橋の光学機器メーカーに勤めていたようで、その会社は海軍の指定工場で、工場跡地は戦後製薬会社に売却された」というけれど、どこの会社でしょうかと聞かれました。いろいろと僕の段階で調べて、製薬会社は山之内製薬で、場所は小豆沢のトプコンの近くということまでわかったのですが、海軍というのが東京光学機械が陸軍の関連であったために違うのではと気になっていましたが、Sさんに問い合わせたら山之内製薬の跡地は戦前旧東京光学機械の本社跡地であったというのです。その旨、Cさんに伝えたところ、後日お父さんは戦前東京光学に勤めていたことがわかり、今自分が光学メーカーに勤めているのも何かの縁だと、感慨深そうでした。そして最後に、山之内製薬は現在アステラス製薬となり研究所は閉鎖され、今は土壌の汚染報告がなされていますが、いかにも光学機器工場跡地というような感じがするのは僕だけでしょうか?。米国製250キログラム爆弾、土壌汚染どちらも戦後60余年“時の忘れ物”であるわけです。
※その後本ブログを読んだSさんによると、前野町は1945年6月10日に爆弾による空襲があったと報告がありました。
※3月21日午前中に不発弾処理は無事終了しました。