このたび、ニコン大井製作所の、最も古い建物である101号館が解体されるというので、その前に見学させてくれるということから、3月の上旬に見に行ってきました。この101号館は、1933(昭和8)年に竣工されたというから、いまから83年も前のことになります。日本光学工業の創業地は文京区で1917(大正6)年のことでした。その翌年1918年に大井町に工場を作ったのです。101号館は当初は1号館と名づけられていたそうですが、1号館の建設は1933年ですから、それ以前はノコギリ歯状屋根の平屋建て工場があったそうです。
≪ニコン大井製作所101号館、83年もの風雪に耐えた建造物ですし、かつてはさまざまな光学機器がこの建物で設計され、試作され、製造されていたことでしょうから、歴史の重みを感じさせ威風堂々とした建物に撮影するためにはと事前に考慮して、超広角レンズを持参した成果です。もともとはこの左側にも建物(103号館)がありましたが、先に取り壊されたようです≫
この1号館は5階建てで、5階:調整用展望台、4階:調整室・設計室・図書室・陸海軍製品検査室など、3階:レンズ研磨室・バルサム室など、2階:仕上げ場、組み立て場、1階:機械場、地階:ロッカールーム、・作業室・長尺物の調整室が当時あったとされ、1935年に5階部分が増築されています。1939年当時の大井製作所の工場配置図を見ると、別の建物に硝子研究室、硝子溶解室、汽缶室、金属修理場、食堂などがあり、道を挟んだ向かい側の敷地には本社事務所、硝子工場、木工場、メッキ場、反射鏡工場、検査室、倉庫などを見つけることができます。硝子研究室、硝子溶解室、反射鏡工場などは、光学メーカーニコンならではの現場です。
≪1939年当時の大井製作所の建物配置図。この地図で、左に行くと現在の横須賀線西大井駅へ、右に行くと光学通りを通って京浜東北線大井町駅となります。左下あたりが、現在の新社屋・大井ウエストビルあたりでしょうか≫
戦前ニコンは軍需光学機器製造会社であったことはよく知られていますが、戦後は民需の光学機器メーカーへと転換を図っていきました。1967年発行された日本光学工業の社史『50年の歩み』によれば、「1945(昭和20)年、終戦によって民需品への生産転換の際、写真レンズと映写レンズが生産品種に採り上げられ、まずニッコール35mmF3.5の製造が同年12月に再開された。」とありますが、戦前の1935(昭和10)年には精機光学研究所の距離計連動機ハンザキヤノンにニッコール50mmF3.5を供給するなど早くからいくつかの写真レンズを開発していました。そして1948年にはニコン初のレンズ交換式距離計連動機のニコンカメラ(ニコンI)、1959年には一眼レフのニコンF、1971年にはニコンF2、1980年にはニコンF3などと続く歴代のフラッグシップ機が、この101号館で設計図面が引かれ、試作がなされ、組み立てられ出荷されたというのです。さらには1978年には現在のニコンのもう1つの柱である「半導体露光装置ステッパー試作1号機」が、1981年には「半導体露光装置量産1号機」が、やはりこの101号館地下にて最終調整され、出荷されたというのですから、ニコンの技術者、関係者にとっては感慨深いものがあると思うのです。
≪101号館1階廊下。この暗く長い廊下は、カメラの実験場としても使われていたそうです。かつてはこの廊下を技術者たちが忙しく行き来していたのでしょう≫
ところで、僕が初めてニコンの大井に行ったのは1970年の6月頃のことだったと記憶しています。大学を卒業したばかりの雑誌編集部員であったころで、まずは写大(現在の東京工芸大)と千葉大に連れて行かれ、その次は日本光学工業の大井工場に行きました。先輩が同行してくれるのは最初だけで、以後1人で行くのですが、当時はニコンFの開発に関係したN課長とH課長の所に原稿や資料を受け取りに行くのです。ある日N課長を午前10時半ごろ訪ねると、応接間に通されて、お茶をだされしばし待つと、受付の女性もどうしたのでしょうねと心配されたのですが、待てど暮らせどでてこられなく、お昼になったら暖かいカツ丼がでてきたのです。そして何度か暖かいお茶をだしていただき、ただひたすら忍耐で待っていたら、夕方の4時過ぎになったら「ごめん、ごめん、忘れていた」といって、でてこられたのです。後でわかったのですが、当時あるプロジェクトが動いていてお忙しかったようです。そして別の日には、もう1人のH課長といろいろとお話していると、髪の毛が長いから短く切りなさいというのです(当時は長髪が流行っていました)。いずれにしても当時も今も、腹の立つことではなく、むしろニコン大井の楽しい思い出として笑い飛ばしているのです。で、ここまでは本題ではなく、まったくの序論なのです。以後、40年近く、ニコンの大井には何回も足を運んでいるのですが、その回数は数えたことがないぐらい複数回でした。ところが現在の新社屋ウエストビル(当時の硝子工場あたりか)ができるまで、いつも通されていたのは地図の下側中央にある本社・事務所の応接間だったのです。今回、101号館に初めて足を踏み入れたのですが、その奥行きの広さ、周辺の土地の広さに驚きました。そして、その昔には各種の作業場があったということです。僕が、訪れだした1970年代は、N課長も、H課長も本社・事務所の地図上で右隣あたりの建物から出てこられていたような気がするのですが、1939年当時の建物配置図からはよくわかりません。いずれにしてもその当時はカメラの生産ラインが101号館にあり、たぶんニコンFを作っていたはずで、あれだけ長い待ち時間があれば組み立て工程を見学したかったのにと悔やまれるのですが、あまりにも昔のことなのです。もちろん、その後、水戸ニコン、仙台ニコンでカメラの組み立ては見学しました。さらにタイ工場もと誘われたこともあったような気がしますが、未だ実現していません。(笑)
101号館は4月には解体が開始され、1年半かけてとりあえずは更地になると聞きましたが、2017年にはニコンは創立100年を迎えるので、その後どのように変わって行くのか興味は尽きません。