タムロンでなくて「タロン」、スモカでなく「サモカ」(ヘタな親父ギャグで殴られそう!)。そう、どちらもカメラの名前なのです。僕の知人に、ソニーのカメラ開発に関わっている技術屋のNさんがいるのですが、そのカメラ好きたるや並ではなく、今から6年ほど前に初めて会ったときも黒塗りのM6を肩から提げていたほどです。ずいぶん若いのに、え!カメラメーカーの技術者という感じでした。M6を提げているからライカカメラ社の社員というわけではなく、当時は別会社のカメラ開発だったのです。こういうことは別に珍しいことではなく、ニコンの設計者でもライカを提げて毎日出勤という人もいるわけで、自動車メーカーがその会社の車でないと客人でも門の中に入れないというような話は良く聞きましたが、最近はどうなんでしょう。少なくともカメラメーカーではそういう話は聞いたことがありません。むしろ他社の、それもお手本となるものを使うということは、自社の製品開発に役に立つということであると思うのです。
そのNさんが、ここ1年ほど前から会うたびに「タロン」を知っているかと訪ねるのです。もちろん、持ってはいないけれど、カメラとしては知っていると答えましたが、Nさんによると、タロンを作っていたのは日本光測機という会社で、その後(株)タロンと改名しソニーに吸収されて、現在の千葉県にあるソニー小見川工場(2009年に操業終了)がそのときの工場だというのです。さらに先日、Nさんは「柳原コーポーレション」という会社の会社概要を持参されました。それによると1951(昭和26)年柳原製作所が創業、昭和28年(株)タロンに改名、1972(昭和47)年ソニーに全株譲渡、同年柳原商事設立、………となっているのです。その後柳原商事は、印刷事業と不動産事業を起こして、ソニー・ミュージックエンターテイメントの音楽テープのパッケージ印刷などを行い、さらに印刷事業を他に売却して、現在は建物の賃貸および管理の不動産業として存続しているというのですが、(株)タロンはソニーに吸収されたわけだから、カメラメーカーとしてのタロンの系譜の後にソニーを入れて欲しいというのがNさんの論なのです。そのソニーは現在、αやサイバーショットなどのカメラを作っているのだからというわけです。これは素晴らしい愛社精神です。
というわけで、話だけではつまらないので「タロン35」の写真を載せました。そこで僕なりに調べてみると、1943(昭和18年)の時点で、機械試験所がだした「国産寫眞機ノ現状調査」という報告書には、当時日本で作られていたカメラの性能試験が載っているのですが、そのときの製造メーカー数が61社もあり、その中に日本光測機製作所が入っているのです。柳原コーポレーションの会社概要によると設立は1951(昭和26)年となっていますが、戦後に改組したときを新たなスタートとしたのでしょう。調査報告書によると、当時日本光測機製作所(東京都大森区大森45-1に所在)はカメラそのものは製作していなかったようで、「NKS」というシャッターを作りマミヤシックス、タローレフ、モルビーという機種に供給していました。このNKSシャッターは、戦後においても安価な二眼レフにたくさん取り付けられていたので知る人も多いでしょう。写真の『タロン35』は、1955(昭和30)年に日本光測機がシャッターメーカーとして初めて35mm判カメラを作った時のものです。ちなみに、このときのレンズは富岡光学機械製造所のローザ45mmF2.8でした。富岡光学はその後ヤシカの傘下となり、さらにヤシカは京セラに吸収されましたが、今も京セラオプテックとして工業用レンズなどを製造しています。富岡光学は戦後東京都下の青梅に工場を構えていましたが、当時は東京都大森区雪が谷町929番地にありました。このほかにも当時いくつかの光学会社が大森区にありましたが、大森区八新井町5-345にあった日本光学工業と無関係ではないだろうと推測します。
そこでもうひとつ。サモカというカメラをご存じでしょうか。左には1956(昭和31)年に三栄産業から発売された『スパーサモカ35』を示しました。三栄産業は1950(昭和25)年に創業した会社で、カメラの他にロマンスライド幻燈機、ロマンスライドビューアー、エズマー引伸ばしレンズ、サモカオートマット電気露出計、サモカフラッシュガン、ライカ判パトローネなどを作っていました。三栄産業の創業者である坂田秀雄さんは16mmフィルムを使った理研光学工業の「ステキー」(1947年)開発者としても知られていましたが、1952(昭和26)年には硬質プラスチック製ボディの35mm判カメラである「サモカ35」を作り、6,800円という低価格で発売しました。その後、1955(昭和30)年には35mm二眼レフのサモカフレックス35を発売するなどユニークなカメラ作りをしていましたが、坂田さんの急逝により三栄産業は勢いを失い、1961年にはキヤノンの系列会社となり、プラスチックの成型加工を手がけるようになりました。1980年にはキヤノン精工と社名を変更し、1985年からはプリンターのトナーカートリッジの製造を行うようになり、1992年にはインクリボンやトナーを製造するキヤノンケミカルと合併し、現在はキヤノン化成としてトナーカートリッジやアイキャップなどの特殊ゴム製品の製造を行っているのです。
戦前戦後を通じて日本には数多くのカメラメーカーがあったわけですが、その中には人知れずして消えていった企業もあるでしょうし、こうしてキヤノン、ソニーや京セラなどに社名や製造品目をを変えて存続している会社もあるわけです。もちろん、このほかにカメラの製造は取りやめても企業としては立派に存続している会社もあるわけですから、そこにはカメラ産業としての歴史の長さを感じるわけです。
◇このほか、ウエスト電気が1956(昭和31)年に松下電器産業(現パナソニック)の傘下にというのもありました。