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写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

日本のレンズ設計草分け小柳修爾さん

 同じような話はなぜか連鎖してやってくるのです。ニコンが交換レンズ用の収差測定装置を開発というニュースレリーズを発表した翌日の9月18日、光交流会(Opto-Electoronics Partners Association)という異業種交流会の月例フォーラムで小柳修爾さんの「レンズ設計経験談」というお話がありました。
 小柳修爾さんは、1953年(昭和年28)年早稲田大学理工学部応用物理学科卒業後、ユニオン光学、ザイカ、東京光学機械(現トプコン)、キヤノンカメラ(現キヤノン)などの光学機器メーカーで光学設計技術者として従事。顕微鏡対物レンズや写真レンズ等の光学設計からスタートし、日本で最初の8mmシネ用ズームレンズ、ズーム式双眼鏡、ライフルスコープ等の光学設計、精密部品検査用の卓上型及耳鼻科等の手術用の単対物式双眼実体顕微鏡等の光学設計など数々の設計に携わってこられた方です。のちにシグマに転籍し、会津工場で取締役品質管理部長としてTQCを含む品質管理、光学測定、製品検査、日本光学機器検査協会との輸出定期検査の立ち合い等の業務を、佐野富士光機(現富士オプティカルカンパニー佐野工場)ではQCサークル委員会委員長としてQC活動推進、提案委員会委員長として提案活動推進等を含む製品の品質管理、営業技術、特殊製品の研究開発等の業務を担当しました。これらの職歴の中で光学概論や光学測定機(MTFや干渉計等)の使用法及びQC概論を主体として新入社員や技術系中堅社員の教育に携わったという実に多くの経験をされた方です。
 大学時代の恩師の勧めで入ったユニオン光学では、顕微鏡の対物レンズのほか、写真用レンズの設計を任され、当時はやったセミ判のスプリングカメラ用の75mmF3.5のレンズをF2.8に改良設計する仕事をやり、ユニオン光学ではユニオンセミというカメラを作り、さらに当時のワルツにレンズを納めワルコンセミという名称で採用されたそうですが、名前が悪かった(?)とかで、長く続かなかったようです。ユニオン光学でのレンズ設計は、現在のように電卓もコンピュータもない時代でしたので、そろばんと6ケタの対数表で計算したそうです。当日は、当時の設計仕様書、対数表(右写真)などを持参され、見せていただきましたがジアゾの青焼きの画像耐久性の高さにはちょっとびっくりしました。
 ザイカに移ってからは、8mmシネ用のズームレンズの開発を依頼され、6枚構成の光学補正式の3倍ズームを作り上げ、さらに改良型として機械補正式の2号機を作り、これが事実上日本で最初のズームレンズ(月刊「写真工業」1957年2月号参照)となりました。しかし会社の経営に危機感を持ち、安定を求めて東京光学機械に移り、実体顕微鏡の光学設計を行いましたが、結婚したばかりで給料が安かったことに悩まされ、1961(昭和38)年にキヤノンに転籍しました。

 キヤノンでは、ちょうど一眼レフが、RからFLへとレンズが新しくなるタイミングで、小型・軽量でベストセラーレンズとなったFL28mmF3.5やFL50mmF1.4、当時ツァイスのフレクトゴン20mmF4を凌駕するレンズとして対称光学系のFL19mmF3.5を1964年に発売しましたが、ミラーアップがネックとなり短期間で製造終了となり、次いで1965年にはレトロフォーカスタイプのFL19mmF3.5Rとなりました。これには後日談があり、小柳さんがキヤノンFT-QLをオーバーホールのため修理会社に出向いたときに、そこで出会ったのがFL19mmF3.5Rをいまでも現役で使っているという写真家の赤城耕一さんで、さらにFL28mmF3.5も愛用されているということで、以後、赤城さんの写真展には顔をだしたり、親交を深めているというのです。このほかキヤノンでは、人口蛍石を使って望遠比を0.7まで下げ2次スペクトルの色収差も軽減したFL-F300mmF5.6を製作し、蛍石採用の先駆けとなったそうです。
 当日最後に語られたのは“レンズ設計は楽しいか”ということに関して、きっぱりとNoと答えられ、レンズの良し悪しは、まずレンズ設計者が責められ、鏡胴設計者にはよほどのことがない限り追及されることはないとのこと。昔のレンズ設計は、設計ソフトが多様化されていなく、非球面加工ができなく、光学ガラスの種類が少なかったなど、レンズ設計はトライアンドエラーで、試行錯誤の連続だったそうです。シグマでは、会津工場で11年半品質検査を担当され、輸出検査に合格ならスタッフに5,000円出すという報酬システムを作り不合格をなくしたそうです。またキヤノン在籍時代には1971年に「光の700」という光学用語辞典をまとめられ、その後日本規格協会の光学用語原案作成委員会委員として光学用語の編纂に携わるなど多くの公職を歴任し、「オプトロニクス光技術辞典」をまとめ上げ、まさに「光学用語の生き字引」として現在もご活躍中です。なお、当日の講演会には、光交流会と提携関係にある“写真映像経営者協会”からも3人が聴講され、うち2人はシグマの技術担当部長で、会津工場で若いころ小柳さんの指導を受け、リクレーションで一緒に野球をしたとか、思いで話に花を咲かせていました。(なおこの文章は当日のお話のうち写真関係に絞ったごく一部です)