写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

フィルムの時代が残したもの

 かつての仕事の関係でしょうか、私の所にはいろいろな写真の貴重な資料が集まってきます。いつもカメラやレンズの話がメインになっていますが、たまにはフィルムというか銀塩写真をテーマにして書いてみようと思いました。下の写真をご覧ください。

≪表紙はビニール引き、シアン、マゼンタ、グリーンと分冊になっている≫

日→英/独/仏/西 5ヵ国語 写真関連用語集(改訂第2版)、1992年9月発刊

英→日/独/仏/西 5ヵ国語 写真関連用語集(改訂第2版)、1992年9月発刊

日→英/独/仏/西 5ヵ国語 写真関連用語集Ⅱ(第1版)、1994年4月発刊

 3冊とも富士写真フイルム営業技術の方がまとめた社員向けの5ヵ国語対応用語集で、1990年代の後半に私の所に、1冊の本にならないだろうかと相談に持ち込まれたのです。内容的に専門的すぎるということから本にはならなりませんでしたが、その時の検討材料としていただいたものを持っていたのです。

 いずれも読んで字のごとくで、「英語→日/独/仏/西」「日→英/独/仏/西」と写真関連用語をそれぞれ5ヵ国ではどのように表すかという用語集なのです。10.5×18.5cm判の体裁ですが、上からシアン色表紙158頁、マゼンタ色表紙150頁、グリーン表紙166頁、発行年月からすると上記2冊を出して、まとめあげたのがグリーンの3冊目ということなのでしょう。その内容の一部を以下に載せましたが、もともと写真が戦後はアメリカのイーストマン・コダック社が出したレポートなどが多く、それを翻訳するだけでも解説や本が成立した時期もあったわけですが、1990年代になると日本発の感光材料技術が世界を席巻するようになり、世界各地で働く富士写真フイルムの社員にとっては、英語から日本語への翻訳ではなく、日本語から英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語で感光材料の高度な技術や微妙な違いを伝える必要がでてきた時代だと考えるわけです。

≪本文ページの一部≫

≪本文ページの一部≫

 

■日/英 写真関連・感覚用語集(改訂新版・総合合冊版)、A5判・403頁

 こちらも、2003年に当時の富士写真フイルム株式会社営業技術部が発行したもので、私と同年だったOBの方が、面白いものあるからあげるよと言われ、2023年にもらったものです。発刊当時は、社名にまだ“写真”がついていましたが、2006年には「富士フイルム」に変わっているのです。

≪表紙はビニールになっていてハンドブックとして手元に置くことが前提だったのでしょう≫

 A5判403頁。日/英感覚用語集を手にしたときに、あれっと思ったのは上の3冊の用語集との類似性でした。よくよく調べてみてわかったことは、営業技術部のIさんが一貫してこれらの用語集をまとめられたことがわかります。それも、単なる化学的なテクニカルタームだけでなく、時間を重ねることによりフィルムやプリントの再現性だけでなく、写真にまつわる感覚的な部分まで英語化されているのが素晴らしいのです。

 ただ、2003年というと、カメラがフィルムとデジタルの生産が逆転した翌年であり、その後写真はいっ気にデジタル化へ向かうというわけですが、このような用語辞典を活用された時期には、世界に向けて富士のフィルムが攻勢をかけていたのだと思うわけです。

≪本文ページの一部≫

≪本文ページの一部≫

 時代も変わり、PCやスマホで数10か国語に翻訳できるソフトの活用が日常的になり、スマホでの音声入力、さらにはカメラで撮影した画面文字のOCRによる文字認識・抽出、さらに多国籍言語への翻訳・音声出力など、あっという間にできてしまう現代は、素晴らしい時代といえます。かつて海外旅行に行くときは、5ヵ国語対応JTBの旅行会話集や、小型の三省堂「ジェム英和・和英辞典」などを持参することによりそれなりに役立ちましたが、昨今ではスマホ1台の持参で相互通訳までできる時代ですから時代は大きく変わったというわけです。

 なお、これら4冊の写真関連用語集は、私の手元に置いてあっても宝の持ち腐れとなりますので、先人の方々のご苦労を未来に残すために、JCIIライブラリーに蔵書として寄贈してありますので、興味ある方はご覧ください。 (^_-)-☆

ペンタックスK-3マークⅢモノクロームを使ってみました

 リコーイメージングは、APS-C判のペンタックスK-3マークⅢをベースにモノクローム専用機の「ペンタックスK-3マークⅢモノクローム」を4月28日に発売しました。画素数は2573万画素で、ローパスレスのモノクロ専用CMOSを採用しているために高解像が得られるのです。これは通常のデジタルカメラではカラー用の撮像素子が使用され、ベイヤー配列R.G.G.B.の色フィルターが付加され補間処理でカラー画像が形成されているのが、本機ではダイレクトに画素数が反映されるために高解像な画像が得られるというものです。階調再現には、標準に加えてローキーでコントラストが高めの「ハード」、ハイキーでコントラストが低めの「ソフト」を選べ、さらに明暗とシャープネスのコントロールもできるのです。

PENTAX K-3 MarkⅢ Monochromeモノクローム専用のブラックボディとレンズ。わが家のデスクトップスタジオでは最も雰囲気のでる“別珍”によるバックだと簡単にいい雰囲気になるので時々使います。

 早速入手して、使ってその性能の具合を知りたいとテストしようと考えたのですが、ここで困ったことになりました。その最大の特徴である、ベイヤー配列のR.G.G.Bカラーフィルターがないことによるシャープさの結果の基準がわからないのです。解像力などの数値によるデータが得られれば良いのですが、比較データがなければ、実写を旨にした私のレポートでは本意ではありません。そこで、急遽、追加でカラーボディと高解像のマクロレンズリコーイメージングから借り、レポートの開始となりました。

≪左:ペンタックスK3-ⅢにHD PENTAX-D FA MACRO 100mmF2.8ED AW(フルサイズ用、2022年)を装着、右:ペンタックスK3-ⅢモノクロームにHD PENTAX-DA 40mm F2.8 Limited(APS-C判、2013年)を装着≫ ここではどちらもAPS-C判使用となるので、100mmF2.8は焦点距離約150mmレンズ相当の画角が得られ、40mm F2.8は焦点距離約60mmレンズ相当の画角が得られます。カラーボディとモノクローム仕様のボディは“SR”、PENTAX、K-3Ⅲの文字が色違いになっています。

≪左:HD PENTAX-DA 40mm F2.8 Limitedのフードはいわゆるフジツボ形の小型フードがついている。右: 元祖LimitedレンズともいえるFA43mmF1.9と並べてみました。フルサイズ、APS-C、口径比の違いがあるものの薄型レンズはどちらも魅力です≫

≪左:モードダイヤル≫ AUTO・プログラムAE・Sv・Tv・Av・TAv・M・Bと刻まれている。AUTOはすべて自動のAE、Svは感度優先のAE、Tvはシャッター速度優先のAE、TAvはシャッターと絞り優先のAE、Mはマニュアル露出、Bはバルブ露出、Xはフラッシュ同調速度、U1~U5まではよく使う露出モードと撮影設定をまとめて設定できるユーザーモード。≪右:D FA MACRO 100mmF2.8ED AWの外観とレンズ構成。発売時には300本限定で白鏡胴も用意されました≫

≪左:モノクロームボディ、右:カラーボディ≫ メニューからデジタルフィルターを選択すると、カラーボディの場合には、オフ ↑ 粒状性モノクローム ↑ ドラマチックアート ↑ ネガポジ反転 ↑ シェーディング ↑ ハイコントラスト ↑ レトロ ↑ トイとモード ↑ オフとループ状になっていて、カラーボディの場合には、オフ ↑ 粒状性モノクローム ↑ ドラマチックアート ↑ ソリッド物カラー ↑ ネガポジ反転 ↑ シェーディング ↑ ハイコントラスト ↑ レトロ ↑ トイカメラ ↑ 色の置き換え ↑ 色の抽出 ↑ オフのループ状のコマンドを選択できる。モノクロームボディのオフはモノクロですが、カラーボディのオフはカラーから始まるのは当然で、カラーボディの方は色+モノクロームとなるので、必然的にメニューは多いわけです。さらに細かい制御をしたい場合には、カスタムイメージからも調整ができ、これらの設定を覚え込ませ、簡単に呼び出せるようにするのがU1~U5までのユーザーモードとなるのです。モノクロームボディの場合には、カスタムイメージから設定するとトーンカーブが表示されるので、写真的に理解するならこちらからの設定がわかりやすいです。

■いつもの英国大使館の正面玄関と

 最初に述べたように、ローパスレスのモノクロ専用CMOSを採用しているためベイヤー配列R.G.G.B.の色フィルターがなく、モノクロ機ではダイレクトに画素数が反映されるために高解像な画像が得られ、カラーボディではR.G.G.B.の色フィルターのを通した信号を補完処理でカラー画像が形成されるので、モノクロ機では解像力が高いのではと考えました。まずは、そこから見てみることにしましたが、とりあえずはいつもの英国大使館正門を撮影してみました。

≪いつもの英国大使館正面玄関:DA 40mm F2.8レンズ≫ F5.6・1/2000秒、ISO400。AM10:15。天候は晴天、いつもの場所から、いつものように屋根直下のエンブレムにピントを合わせました。40mmレンズは約60mmレンズ相当画角となるので、屋根を入れると地面までは入らない挟角です。いつもは画角30mm相当レンズで行うのを標準としてます。画質的にはまったく問題なく、エンブレム周辺の壁面はツブレもなく窓枠のハイライトから、右樹木のシャドーまできれいに描写されています。

 さて、ベイヤーフィルターを使ったカラーボディと、使わないモノクロームボディの解像感の違いを引き出すにはどうしたらよいかテストしてみました。

≪正福寺地蔵堂≫ カラーボディにDA 40mm F2.8レンズ。F5.6・1/200秒、ISO200、晴天下での撮影ですが、中央部に屋根の庇の暗部が占める面積が多いためAEでは暗部が描出されるように+の露出補正がかかったようになり、屋根・空・左右の植栽はオーバー気味の露出成果となります。東村山市にある東京都内唯一の国宝である正福寺地蔵堂(1407年、応永14年建立)です。この建物の屋根はこけら葺きという、スギなどの木材を薄く切って重ねて、反り返った独特の形状を持っています。この状態で撮影して、屋根の部分を拡大すると、デジタルカメラの画素数が少なかったころはモアレが発生していたのですが、高画素となった最近はモアレは出現しなくなりましたが、カメラ・レンズのトータルな解像性能を知るにはなかなか有効な被写体です。

≪㊧モノクロームボディ、㊥カラーボディ、㊨カラーボディ・粒状感モノクロームモノクロームボディとカラーボディのカラー、デジタルフィルターをかけて同じように撮影して、中央屋根庇部分から上にトリミングして約120%に拡大しての掲載です。この極端な部分拡大でわかることは、カラーの場合とそのモノクロ画像はちょっ見た感じでは、カラーボディの方が解像感があるように見えますが、微細に見るとモノクロームボディの方はカラーボディとは異なる感じで微妙に解像している感じがありますが、これはボディ側の画質設計段階のシャープネスのかけ方の違いからくるものかもしれません。ただ解像というよりは、大変微妙ではありますが、階調的な再現幅はモノクロームボディの方が上という感じで、左のモノクロームボディの画像は、何となくこけら葺きの分離が幅広く見えていることになるのでしょう。いずれにしてもAPS-C判で2573万画素の120%拡大というような引伸ばしは通常はありえないことです。

≪いつもの風景 北山公園≫ モノクロームボディDA 40mm F2.8レンズ。F5.6・1/1000秒、ISO400、晴天下での撮影ですが、1つの例でカメラやレンズの性能や描写傾向を決めることはできません。ふだんは、拡大して中心から周辺の枝葉の細かい部分を見ていますが、今回はもう1つのアプローチでモノクロームとカラーボディ比較してみました。ここに掲載した全体画面からは判別できませんが、木道の一番先に3本に枝分かれした木があるのですが、その左側の幹に下から1mほどの位置に「PENTAX」と赤く中太マジックで書いたA4の紙を横にして貼付けてあるのです。

 以下、その結果を紹介しましょう。

≪㊧モノクロームボディ、㊥カラーボディ、㊨カラーボディ・粒状感モノクローム≫ 正福寺と同じように3種類撮影しましたが、100m以上離れたほぼ∞状態を示す距離をターゲットにしました。約300%の拡大画像ですが、㊧のモノクローム画像はかろうじてPENTAXと書いてあるのが何となく認識できます。㊥はカラー画像ですが、赤のガムテープで張り付けてあり、その部分は明確にわかりますが、文字部分はまったく読めません。㊨のカラーボディのモノクローム画像はまったく解読不可能です。まるで画像解析しているような感じですが、カラー画像の方が情報量が多いということを再認識しました。

■実際の撮影場面では?

 さて、何となくモノクローム専用ボディの画像と、カラーボディの画像の違いが分かったところで、これ以上比較してもその決定的な差を見つけ出すのは難しいので、さまざまな場面で使った感じをお見せしましょう。

≪英国大使館正面玄関の紋章≫DA 40mm F2.8レンズ: F5.6・1/1000秒、ISO400。40mmといってもAPS-C判では60mm相当となるので、いつもの正面玄関写真では門扉の紋章までは入らないので、近づいてアップしました。この写真からわかることは、炎天下で日差しは強いわりにはシャドーからハイライトまで柔らかく描出されている感じです。もちろん、撮影モードを変えたり、モニターが変われば見え方も変わるでしょうから、やはりプリントして判断しなくてはわかりません。

半蔵門国民公園≫ DA 40mm F2.8レンズ:F2.8・1/5000秒、ISO200。元英国大使館敷地にできた公園のテーブル。なんとなくイングリッシュガーデン風かなとも思いますが、背景の花の色はどのようなものかはイメージしにくいですが、画面中央左脇の黒いテーブルのエッジにピントを合わせました。黒のテーブルの中に白く輝く輝点もあり、黒の濃度は高いように感じます。DA 40mm F2.8レンズとしてみると、背景のボケ具合は均質で、クセはまったく感じません。

千鳥ヶ淵公園の遊具≫ DA 40mm F2.8レンズ:F6.3・1/400秒、ISO400。露出モードはプログラムAEで撮影。この遊具は子供向けに樹脂製で柔らかく、左の丸い部分は黄色、中央のくねった滑り台は緑、右端の滑り台は赤という具合ですが、モノクローム画像から元の色はなかなか想像つきません。フィルム時代のパンクロマチックかオルソパンクロマチック的な特性なのでしょうか。

≪写真家 石川武志さん≫ DA 40mm F2.8レンズ:F2.8・1/80秒、ISO5000。OMシステムギャラリーでの1カットです。特に露出補正は加えていませんが、ほどよく石川さんに露出がきています。カメラの自動露出補正での描写もありますが、ISO5000と高感度ながら柔らかみを持っているのは、フィルム時代の高感度描写とは異なり、柔らかでおとなしい描写です。

≪新宿の街角にて①≫ DA 40mm F2.8レンズ:F2.8・1/80秒、ISO100。街に活気が出てきたので、スナップです。店の奥の女性にはしっかり目線をもらっています。

≪新宿の街角にて②≫ DA 40mm F2.8レンズ: F2.8・1/80秒、ISO400。40mmレンズの直線性の描写は良好。やはり全体的に柔らかいです。

≪新宿の街角にて③≫ DA 40mm F2.8レンズ:F4・1/80秒、ISO640。歌舞伎町入り口にて。

≪新宿の街角にて④≫ DA 40mm F2.8レンズ: F2.8・1/80秒、ISO1600。プログラムAEで、暗い路上でしたのでシャッターは1/80秒と遅めですが、少しぶれた感じが雰囲気あり、お互いを撮りあったばかりなのしょうが、気持ち流動感があっていい感じです。FBでのプレビュー時点で上の写真に36票、このカットに13票の「いいね」が入りました。私的にはこのカットの方が写真的には面白いのですが。元都電の引込み線跡遊歩道にて。

≪新宿の街角にて④≫ DA 40mm F2.8レンズ:F2.8・1/80秒、ISO5000。上のカット比べるとプログラムAEでやはり絞り開放は当然のこととして、シャッター速度は1/80秒ですが、感度がISO5000にアップしています。この上昇はシャドー部が多かったからでしょうか。いずれにしてもハイライトからシャドーまで描出されていますが、地図案内のハイライト部がわずかに飛んでいますが、これを避けるにはマイナスの補正をかけるよりしかたないでしょう。DA 40mm F2.8レンズは実質約60mm相当画角となるのですが、スナップにおけるこの準望遠的な距離感に最初は戸惑いましたが、昨今の風潮を考慮するとこの距離感がすごく有効だなと思いました。

■HDペンタックスD FAマクロ100mmF2.8ED AW

 高解像感を調べるために借りた100mmマクロですが、ほとんどをDA 40mm F2.8で撮影をしてしまいました。手にしてみると、かつてMF時代のSMC ペンタックス-M マクロ100mmF4よりAFで大口径なのに小型なのには驚きます。そこで、わが家の自然色標準被写体として常備している枯葉類を撮影してみました。

エノコログサと枯葉:モノクロームボディ≫ 100mmF2.8マクロ、F2.8・1/160秒、ISO320、-0.7EV、レベル補正。露出補正なしで撮影したらわずかにオーバー気味でしたので-0.7EVの露出補正をかけ、さらにメリハリがつくようにとPhotoshopで自動レベル補正をかけました。中心部に配置されたエノコログサにスポット的にAFでピント合わせしましたが、絞り開放でも大変シャープであること、画面が均質な描写を示しているのは立派です。

エノコログサと枯葉:カラーボディ≫ 100mmF2.8マクロ、F2.8・1/160秒、ISO320、-0.7EV、レベル補正。撮影条件は上と同じですが、カラーの方が情報量が多いせいか、よりピントが合っているようにも見えますが実質は同じでしょう。

エノコログサと枯葉:モノクロームボディ≫ F8・1/160秒、ISO2500、-0.7EV、レベル補正。同じ条件で絞りをF8に絞り込みました。明らかに深度が深くなった分シャープな部分が増えましたが、解像力的には開放のF2.8と大きく変わりません。これはマクロレンズとして開放から諸収差が補正され十分な解像力が得られているので、これ以上絞り込むと回折により解像力は低下するかもしれません。

エノコログサと枯葉:カラーボディ≫ 100mmF2.8マクロ:F8・1/160秒、ISO1250、-0.7EV、レベル補正。絞り込みにより薄赤や橙に色づいた葉の葉脈もすっきり見えますが、まったく平面の紙などを複写する場合には必要以上の絞り込みは不要でしょう。左下のは乾燥しきった真紅のトマトです。

≪名前は不明の花ですが≫ 100mmF2.8マクロ:F5.6・1/400秒、ISO100、レベル補正。最初はこの草花を40mmレンズでモノクローム撮影しましたが、なんだかわからない絵柄となりましたので、改めて100mmマクロでカラー撮影しました。

≪約100%の画素等倍相当に拡大≫ 上のカットをトリミングしました。F5.6に絞ってありますが、画素等倍までプリントを拡大することは実際にはあり得ませんので、かなりシャープな像だとおわかりいただけるでしょう。

■デジタルのモノクロ単能機の意味するものは

 「ペンタックスK-3マークⅢモノクローム」を使った結果を紹介しましたが、カラーボディよりシャープであるかということに関しては、なかなか実画面(実プリント)での認識は難しいというのが正直な印象です。そこで、同じモノクロームボディを出しているライカユーザーにそのあたりを聞いてみると、かなり似た印象をモノクロームボディに持っていることがわかりました。つまり高感度に対応しながらも、階調の特性が豊かなのです。そもそも、「モノクロ=フィルム」描写と単純に直結して考えることにむりがあるのです。もしフィルムでの描写特性に例えるならば色素発色のモノクロームフィルムに近い階調というか描写特性でしょうか。いずれにしても、撮影時からモノクロにもいくつかモードも設定できますが、デジタルですからレタッチソフトでの調整、インクジェット出力なら用紙の選択、プリンタードライバーでの調整などもあるわけですから、簡単には決められないでしょう。

 ただ、今回さまざまなシーンでの撮影でわかったことは、個人的には街中でのスナップにデジタルのモノクロはすごく相性がいいと思いました。そこで、ブレを抑えたいならより高速シャッターで、深度が欲しいなら絞り込んでも感度で対応できるというわけでして、それらをカバーするのがデジタルならではの高感度、いや超高感度特性であって、これは何物にも代えがたいと思うわけです。さらに付け加えるなら、モノクロ専用機を持つ潔さ、思い入れも大切だなと思うのです。

 2022年末にリコーイメージングは、ペンタックスブランドでフィルムカメラプロジェクトをスタートさせましたが、むしろコンパクトなデジタルでモノクローム専用機をだしたほうがこの時期は話題性は十分でしょうし、そのブランドはリコーGRでも、ペンタックスエスピオでもいいわけでして、時代の流れに対して後ろ向きなモノ作りより、前に向いた製品作りであって欲しいと、考えるのは私だけでしょうか、熟考を願う次第です。 (^_-)-☆

 

キヤノン25mmF3.5 - 時代が変わればレンズの数え方も変わる

 いまやレンズ交換式のカメラといえば、ミラーレス一眼が全盛です。カメラ技術発展の歴史をたどると、それ以前はペンタックスに代表される一眼レフ、さらには距離計連動機のライカなど、数々の名機がありました。いま、流行りのミラーレス一眼は、これらの時代の歴史的なレンズを、ふたたび生き返らせる“マウントアダプター”のおかげで誰もが簡単に往年のレンズの描写を楽しめることになったのです。もちろん、最新のミラーレス一眼専用の交換レンズを使用すれば、かつてはプロ中のプロでしか撮れなかった、カワセミの飛翔やスポーツ、列車、星空などを、それぞれのカメラ機能を活かせば多くの人が撮影できるようになり、これがカメラ技術の進歩であり、歴史的にこの技術進歩が撮影領域を広げてきたのです。

 とはいっても、写真の楽しみ方はそれぞれで、昨今ではかつては暗室を必要としたプリント作業を家庭でも明るい場所で簡単に行えるようになりましたが、その一方で銀塩フィルムを使った暗室でのプリントワークを楽しむ人、さらには古典的な写真技法にのめり込む人がいたりと多彩で、撮影用のレンズではクラシックなレンズを用いて独特な描写を楽しんだり、最新レンズと変わらないような描写を楽しむ人もいるわけです。この中には若い人たちのように安価だからという求めるということもありますが、われわれの世代にとっては、かつての思いで深いレンズでミラーレス一眼を使って楽しみたいというのもあるのです。

キヤノン25mmF3.5スクリューマウントレンズ≫ フルサイズでコンパクトなシグマfpには薄型で小型のレンズが似合います

 そのようなわけで、私の思いでレンズ「キヤノン25mmF3.5」について綴ってみました。

 

キヤノン株式会社御中
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
早速ではございますが、御社(当時はキヤノンカメラ)が1956(昭和31)年に発売された「キヤノン25mmF3.5」のレンズ構成の表記に関してお尋ねします。
私、市川泰憲は2022年11月20日に、自分で執筆するブログ「写真にこだわる」に“昭和のレンズ”として「キヤノン25mmF3.5」を作例入りで紹介しました。この中でレンズの仕様と外観写真を入れ、レンズの構成枚数表示は過去からのキヤノンカメラミュージアム内の表示に従って3群5枚構成と記述しました。ところが、この「写真にこだわる」ブログの紹介記事を11月20日フェイスブックにて紹介すると、御社OBカメラ好きのNT氏からレンズ構成枚数の表示がおかしいと異議を唱えてきました。私としては、このレンズ構成の表記に対しては以前からおかしいと考え、月刊「写真工業」編集部時代からことあるごとに御社の担当部門に5群5枚構成ではないかと問い合わせをしてきましたが、表記方法は昔から3群5枚構成であって問題ないとのことでした。

『2022年12月下旬に、上記の内容の文章をキヤノンに提出しました。これにはフェイスブック上での写真仲間とのやり取りから派生したのですが、そのやり取りは以下のようです』

FaceBookでのやりとりより
≪TNさん≫キヤノンカメラ開発OB、現役中は規格関係を担当)
キヤノン25mmは貼り合わせがないので5群5枚構成ではないでしょうか。凸と凹の間には空間があって非接触です。本家のトポゴンの特許では66mmとか75.7mmなどの焦点距離で0.02mm離れています。特許には前後に並行平面を持った構成もありますが、ないもので4群4枚、あるもので6群6枚構成です.キヤノン歴史館の記述から引っ張ってこられたのでしたら、キヤノンの記述が誤りだと思います。大まかな構成図で接触していると解釈した執筆者のエラーではないかと.
この時代、レンズ1枚の寸法で最も公差がゆるいのが厚みでした。そのため写真レンズであってもレンズエレメントを組み込む金物は削りしろをとって作られ、組み込むレンズの実寸に当たって金物側を切削し、レンズ間の空間については設計値と同一値にしながら組み立てていました。そのため、投げ込みの組み立てを行う現代では難しい、光軸上で最もレンズ同士が接近する構成も可能だったと思います.
≪市川 泰憲≫
TNさん、確かにおっしゃる通りですが、この件に関しては、過去に執筆されたMさん始め多くの担当者に何度も疑問を呈しましたが、結論は得られませんでした。結局、1ユーザーレベルで確定情報流すのは、市場に混乱を招くだけですのでキヤノンカメラmuseumが直さない限り、私レベルでは問題を提議できても、直せません。ぜひOBカメラ好きとして、直すよう提案して下さい。
≪TNさん≫
Mさんにもご確認されてらっしゃるのですか。うーむ、レンズ個体をお持ちですから前後から見てセンターにニュートンリングが出ていなければ間隔ありと断定はできるのですけれど、現役のカメラ開発とはまだ関係がありますが、レンズの光学設計に繋いでもらいましょうか.
≪市川 泰憲≫
私の25mmは、ライカM3の広角として1977年頃、当時キヤノン広報のUさんを通して、キヤノンの倉庫にあった最後の新品だそうで、3万3千円ぐらいでケース、ファインダー付きで購入しました。おまけにUさん私物のY2とスカイライトの専用フィルターをいただきました。ニュートンはでていません。フィルムの時代から、裏面照射のCMOSになったデジタルの時代まで、一貫して使えています。歴史的な経緯という意味で、最近の設計の方はどうなんでしょうかね。
≪TNさん≫
図面か自社特許(あるのか?)が探し当てられれば簡単なのですが、社内では前者の方がまだ簡単かもしれません。社内の人間にあたるときにツァイスのトポゴン特許をつけて依頼しますが、光学設計でも長年の記述に手ぶらで文句をつけるのはなかなか大変かもしれません.
≪MKさん≫ 注)ライカニコン熱烈愛好家
「3群5枚構成(構成枚数表示はキヤノン式カウント法に従っています)」という記述はそういう意味があったんですね??。しかし、一部のみ貼り合わせというのは考えにくいです。
≪TNさん≫
あの構成で凸と凹が接触しているなんてありえないです。本家ツァイスのトポゴン特許でも隙間あります。
≪市川 泰憲≫
TNさん、張り合わせとかの問題でなく、群と枚数に関しての考え方が違うのでしょう。当時の設計者はだれかな? ただ、5枚目の平行平面ガラスの効果がパテントがらみかもで、確かにトポゴンタイプのニッコール25mmはF4なのに周辺がケラレますが、明るいF3.5のキヤノンはケラレません。
TNさん
そちらの線も攻めてみます.
≪HJさん≫ 注)元AO社光学設計者
単レンズを貼り合わせたモノを群(グループ)と数えるのは、いつからの習慣なんでしょうね? 絞りを挟んだ前群と後群に、平面ガラスを足した3つのグループにも見えます。群の定義の仕方、ですが。
≪市川 泰憲≫
HJ さん、そこだと思います。
 途中略
TNさん
市川さん、スレッド上の皆様、ツテを頼りにキヤノンサイトの訂正を申し入れたところ、早速対応がとられ、5群5枚と訂正されました.宜しければご確認ください。

≪市川 泰憲≫    
そんなに簡単に変えてしまうとは、今までは何だったのでしょう。これからは5群5枚構成に直して記述しましょう。

ということで、2022年11月22日現在で5群5枚構成と訂正され、長い間のこのレンズ構成の謎を閉じました。

■私が言いたかったこと
 しかしここで私が問題にしたいのは、1晩で3群5枚から、5群5枚に切り替わったのは、①どのような根拠に基づくのか、②過去、御社の先輩方が守ってきた表記法をどのようにとらえ、社内的に関係部署で検討されたのか、③キヤノンカメラmuseumでは、2022年11月22日現在で5群5枚構成と訂正されましたが、その部分に関しては何の説明もありませんでした。過去に残る印刷物、その他資料、また私が制作した書籍などでは、訂正はできません。そこでやはり、2022年11月22日現在でなぜ5群5枚構成と訂正されたかの注釈をキヤノンカメラmuseumの「キヤノン25mmF3.5」のレンズ構成図の部分に加えるべきだと考えます。いかがでしょうか。
 私がこの部分にこだわるのは、自分が「キヤノン25mmF3.5」を所有しているということにとどまるだけでなく、1969年に写真工業出版社から発売された「国産カメラ交換レンズのメカニズム便覧」の表を私自身が、学生時代にアルバイトで出向いてA6横開きのキヤノンカメラのレンズカタログを参照して作り上げたものであり、当時の広報のN氏やU氏に出向いてレンズの構成枚数の確認をとったから強く記憶にあるのです。

 以下には、その時の表を抜粋しましたが3群5枚となっていますので、キヤノンミュージアムの元資料を作り上げたMY氏の時点で間違えたとするNT氏の指摘する執筆者のエラーではないかというのはあたりません。私は、その後も技術情報課のM氏やS氏にキヤノン25mmF3.5レンズ構成の件を問い合わせましたが、昔から、歴史的にということで3群5枚構成という表記は変わりありませんでした。

 「国産カメラ交換レンズのメカニズム便覧」より(写真工業出版社、1969)

 

■その他文献によるキヤノン25mmF3.5のレンズ構成に関して

 

1)日本写真機工業会編カメラ年鑑1956~1957日刊工業新聞社

レンズ構成に関しての仕様の中にレンズ構成断面図はありますが、構成枚数の記述はありませんでした。この年鑑の交換レンズ表には、25mmF3.5(1956年1月発売)の部分は空欄”で、28mmF3.5(1956年4月発売)の部分は“特許出願中”となっていて、28mmF3.5(1951年10月発売)の部分は“J.P.205561、U.S.P.265974”と明記されています。引き続くそのほかの焦点距離キヤノンレンズには“J.P.ナンバーもしくはU.S.P.ナンバーか特許出願中”と記述されているので、25mmF3.5の部分だけ空欄なのは理解に苦しみます。

2)日本写真機工業会編カメラ年鑑1957~1958 、日刊工業新聞社

 レンズに関しての仕様の中に構成枚数は5群5枚と記述されています。レンズ構成断面図48として別にあります。ここでの掲載はA4判開き掲載で2ページにわたっていましたので、該当部分だけを切り取り、上下に組み合わせて掲載いたしました。この出版は、日本写真機工業会編で、日刊工業新聞社からの刊行ですから、正式なキヤノンカメラの資料とはいえません。キャノンカメラと社名はなっていますが、少しレンズの構成がわかる校正者なら、独自の判断で5群5枚と校正したということも考えられます。

 

3)キヤノン英文カタログ(特許庁公開資料より)

 こちらはキヤノンカメラのカタログです。この時点では、レンズ構成は3群5枚であることが明記されています。設計者は向井二郎氏であることもわかます。当時キヤノンで光学設計をやっていた小柳修爾氏(キヤノン発行、光の700の編著者)によると、向井二郎氏は長くはキヤノンに在籍しなかったようです。

4)キヤノンレポート31(特許庁公開資料より)

    

 こちらの文献では、レンズの構成枚数については5枚とは書かれています。やはりパテントなど何らかの問題があり明記しなく、その後は3群5枚構成としたと考えるのが妥当ではないかと考えるわけです。

 以上、「キヤノンレンズ25mmF3.5」の構成を3群5枚と表記した印刷物はたくさんあります。1晩にして5群5枚とした経緯をミュージアム該当個所に歴史的経緯を含め明記すべきだと私は考えます。

キヤノンから返事がやってきた

 質問を送付したのが年末でしたので、年を越した少し経った頃にキヤノンから正式な文章がやってきました。以下に細かな謝辞など詳細は割愛し概略を紹介します。

CANON 25mm F3.5の誤記に関するご指摘をいただき、誠にありがとうございます。
さっそく 至急調査をしましたところ、 弊社の公式書籍である50 年史 (1988年発行)や関係者の執筆した「キヤノンレンジファインダーカメラ(1996年発行)」には、5群5枚との記載がありました。 開発部門にも見解を求めたところ、「カタログ等へのレンズ構成の記載について、複数のレンズが接着されている (貼り合わせレンズ) 場合は1群としてカウントするので、本レンズの場合は5群5枚が正しい」とのことでした。したがって、 カメラミュージアム制作当初からの誤記であったと判断し、当カメラミュージアム上の記載を訂正した次第でございます。なお、開発部門によると、「旧聞に属する事であくまでも推測ではあるが、 開発当時は、 光学設計的な見解として、近接しているレンズ (1枚目と2枚目、3枚目と4枚目) をそれぞれ1群として数え、3群5枚としていたのではないか」ということでした。

「なお 当カメラミュージアムにおきましては修正履歴を記載せず、常に最新の情報を掲載するという運用をしております。今回のお知らせに対して、 関係者一同大変感謝しております。今後ともよろしくお願いいたします。」

 ということで、めでたしめでたしとなり幕は下りたのですが、結局、特許だとか難しい考え方を抜きにして、レンズ構成枚数の数え方が時代によって変わってきたのではないかと思うのです。

 ちなみにこの時期改めてキヤノンの50年史を調べたところ、どうやら2種類あるのです。実はこの50年史に向けて私はハネウエルVAFモジュールの展開写真を提供しているのですが、私が個人的にもらったものには写真提供者として私の名前が出ていたのですが、ないのもあるのです。多分、提供を受けていて写真提供リストに名前が記されていないというのはまずいとなったので、追加して印刷したのでしょう。本つくりの現場にいるとわかりますが、よくあることです。

■やはり当時は3群5枚構成の表示だったのです

 その時点までに私が参考にした日本語のカタログは見つけられませんでしたが、今回のブログ掲載にあたり、写真仲間に問うと、瞬時に海外向けのキヤノンレンズカタログの所在を知らされました。以下にその一部をご覧にいれます。

 

 ≪1958年、海外に向けキヤノンレンズカタログの該当部分。この時点では5枚構成でした≫

 

≪1965年のキヤノン7sの時期に発行されていた海外に向けてキヤノンレンズカタログの該当部分。3群5枚と表記されていました。当時の日本版キヤノンレンズカタログは3群5枚で同じだ合ったのです≫

 そこにはやはり3群5枚構成と示されているのです。結局、キヤノンの公式書籍である50 年史 (1988年発行)に5群5枚と記述されていて、それが最終判断だとすると、2022年11月22日まで「キヤノンミュージアム」上でそのように表記されていたのは残念でした。しかし、まさかそれが1日で書き換えられるとは思いませんでしたので、画面キャプチャーはしていなかったのが残念でした。

≪1966年の日本語版キヤノンレンズカタログ≫ 中村文夫氏提供.追加情報です。

≪写真工業出版社、2000年11月発刊、「世界のライカレンズ」のキヤノン25mmF3.5スペック表より≫ わざわざキヤノンの表記法に従っていると明記してある。追加情報です。

 

≪ 2022年11月22日時点のキヤノンミュージアムの「キヤノン25mmF3.5」紹介部分。その数日前までは3群5枚構成と表記されていました。まさか、即日訂正されるとは考えていなかったので、画面キャプチャーはしていませんでした≫ 

 

《その後、アーカイブされているサイトが海外にあることを教えてもらいましたのでキャプチャーしてアップしました》

 

 これからはキヤノン25mmF3.5は、5群5枚構成と表記して行くのですが、私のかかわった書籍・書籍雑誌は元に戻せないのです。最近のWebメディアでは、修正が加わった場合には、その個所と訂正日時が加えられていく傾向にありますが、「キヤノンミュージアム」にもそのような対応が欲しかったのです。と言いつつ、私のブログもアップ後数日間は、訂正・追加をどんどん加えていますが、逆にそこがWeb記事の良いところでしょう。

■いつの時代から○群○枚と表示されるようになったのだろうか

 ちなみに、レンズに○群○枚と表示、もしくは言及されるようになったのはいつごろからだったのでしょうか気になりましたので、断捨離後にわずかに手元に残した文献として1935(昭和10)年に発行された誠文堂新光社の「寫眞科學大系・寫眞光學」によると、2枚のとか3枚の接合レンズと○枚の単レンズという表記がされてレンズを語っているのです。例えばテッサーだと『テッサー(Tessar)のF:6.3は1902年にツァイスから売出されたレンズであって、第56圖に示す如くトリプレットの最後のレンズを二枚接合レンズとなし、集射接合面を用ひて従來のアナスティグマートよりも補正をより一層よく行ったものである。絞りの前群は凸レンズの形の空気レンズを用ひて居り、之は擴射作用をすることは既に述べたとおりである。』と解説されていて、3群4枚構成というような表記はないのです。A5判156ページほどの本ですが、この中には一切○群○枚構成というような表記はなく、唯一、ヘリア(Heliar)は『ヘリアは五枚レンズ系に屬するものであって第一群と第三群は新しい硝子で作られた二枚接合レンズであり、中央は屈折率の低い珪酸硝子で作られた兩凹レンズである。………』と解説され、群という表記はこの部分だけなのです。

 さらに、戦後の光学技術者のバイブルとされた、林一男、久保島信氏共著の1955(昭和30)年に共立出版から発刊された写真技術講座1(全8巻)「カメラ及びレンズ」には、○群○枚と記述された部分は見つけることはできませんでした。この本は長く写大の教科書として使われていたために、市中に古書として出回っているものが多いので、写真レンズに興味のある方は手元に置きたい本です。

 ということで、少なくともレンズに○群○枚と表示されるようになったのは戦後のかなり時間が経ってからと考えられのです。ですから、レンズ構成の表記方法は時代によって変わってきても、まったくおかしいとは思わないのです。

 念には念を入れてと思い身近にあった日本カメラ社の「カメラ年鑑 1955版」は、このレンズではなく他社のレンズには○群○枚と記述された部分を見つけましたが、これは本題とする部分ではないので、これ以上の深入りはしないことにしました。

■写りはミラーレスの時代にあってもすばらしい

 さてキヤノン25mmF3.5は70年代の北井一夫氏ら多くの日本の写真家に使われたことでも知られています。現在もこのレンズは、歴史的な物として愛でるだけものでもないし、やはり写真撮影の道具として使って初めて価値があるものです。以下に、私の写真仲間である陸田三郎さんのキヤノン25mmF3.5による近作を紹介しましょう。

 

≪北海道最高峰・旭岳中腹≫ 絞りF8

 

≪上海・浦東≫ 絞りF3.5

 

≪北京の胡同≫ タイヤを覆う板は犬のオシッコよけです。絞りF5.6

 

≪台湾・台中の国家歌劇院≫ 伊東豊雄さん設計。絞りF8

 

≪ソウル・梨泰院≫ 2018年のハロウィンの宴の後。2022年の大量圧死事故の現場近くです。絞りF3.5

 

 いかがですか、陸田三郎さんさんは、新聞記者として長年海外での駐在経験もあり、現在はときどきカメラを肩に、日本の近隣の国々を訪れ、写真を撮りながらカメラ店をのぞくなど写真三昧の日々を送られています。このような素晴らしい作品を提供くださったことに深く感謝いたします。また、今回の半世紀以上にわたる私のうやむやを明確にしてくださったTNさんにも御礼を申し上げます。謝謝! (^_-)-☆

*本記事の掲載によって当該レンズの中古市場価格が高騰しても私には関係ないことです。

《追記》

■ユルブリンナーはキヤノン25mmF3.5を使っていた

 2023年11月に開催されたライカカメラ社のオークションに、ユルブリンナーが使ったライカMPの№59と№60のうち、№59にはキヤノン25mmF3.5がついて出品されました。№60はズミクロン50mmF2付きで、どちらも400.000ユーロでスタートし、600.000~700.000ユーロが落札価格として示されました。

ユルブリンナーはライカMPにキヤノン25mmF3.5をつけて使っていた

(2023/11/03追記)

こだわりのAF一眼レフ「コンタックスAX」

■京セラ 稲盛名誉会長とコンタックスAX

 2022年9月1日付のはてなブログ「写真にこだわるの」に“京セラ 稲盛和夫名誉会長を偲んで”という記事を載せたところ、ヤシカ/京セラ時代からの知り合いである青木豊さんから、その部分をコピーして、ヤシカ/京セラ時代のOBの方々に配布したという連絡をいただきました。青木さんは、稲盛さんが亡くなられて、カメラに関係した情報がないだろうかとWeb上で「稲盛和夫/カメラ/京セラ」と検索したところ、トップに「写真にこだわる」のブログ記事が出てきたので、読んでみると、執筆は良く知る私だったのでビックリしたというのです。その追悼記事のあらすじは、京セラが1983年にヤシカを吸収合併し、2005年にカメラ事業から撤退したが、その間22年間ユニークなカメラ作りを通せたのは稲盛さんのカメラに対する理解があってのものだった、という主旨でした。

 その配布された記事を読まれたヤシカ/京セラ時代からのカメラ技術者であった山本勝(写真2)さんから青木さんに連絡があり、山本さんの名前入りで、シリアルナンバー100001の「コンタックスAX」が手元にあるので、私に託して日本カメラ博物館に寄贈したいというのです。コンタックスAXは、既存のヤシカ/コンタックスマウントレンズをそのままでAFを可能とするバックフォーカシング(フィルム面フォーカシング)の35mm一眼レフで、1996年に発売されました。古くはスプリングカメラの「マミヤ6」にも採用された焦点調節方式で、それをレンズ交換式の一眼レフでAF化したことが驚きでした。

≪写真1≫ 標準レンズ、カールツァイスプラナーT*50mmF1.4を装着した「コンタックスAX」

 当時、山本勝さんがコンタックスAXの開発を担当されていたことを私は知っていましたが、コンタックスAXに添付されていた山本さんからのお手紙によると、山本さんが定年した後の1996年の5月にAXが発売されたため、『新製品を手にとって見ることが叶わないままに去ってしまうのを気の毒がったカメラ開発部の人たちはもちろんのこと、製造や営業の人たちからも浄財を募り、そのお金で購入して贈られた思いで深いカメラで、記念品として製造1号機(シリアルナンバー100001)を選び、さらに名前まで刻印した製品に仕上げて贈っていただいた』カメラで、しかもその募金の旗振りをしたのが当時経営企画室でコンタックス事業推進を担当していた青木豊さんだというのです。コンタックスAXと京セラ230AF、さらにはミノルタα-7000やその時代のAF技術にはいくつか思うところがあったので、せっかくの機会ですから、コンタックスAXを紹介すると同時に周辺についても書き記してみることにしました。

 ≪写真2≫ 山本勝さん、コンタックスAXを手に(現在)と現役時代(59歳)

 

コンタックスAXとは

写真3は、AXを手にした状態で各操作部がわかるような角度から撮影。トップカバー左肩に記念モデルであることを示す刻印が施されています

 まず、コンタックスAXとはどんなカメラだったか、発売後30年近く経つとわからない方も多いでしょうから簡単に紹介します。写真1は、50mm標準レンズを装着したコンタックスAXです。写真3は、AXを手にした状態で各操作部がわかるような角度から撮影。トップカバー左肩に記念モデルであることを示す刻印が施されています。マニュアルフォーカスのレンズが付いていることから外観からはAF機であることはわかりにくいですが、トップカバー右上にはSAFとCAFを切り替えるドライブ切替えスイッチ、さらに右肩部にはAF・AFLのフォーカス切替えスイッチがあることにより、AF一眼レフであることがわかります。カメラを構えて、このAF・AFLの切替えスイッチの中央のボタンを右手親指で押し込むとAFが作動してピントが合います。では、どういう仕組みでAFが可能なのか見てみましょう。

≪写真4≫ 左:裏蓋を外した状態。右:AXの中央断面を示しました。(月刊「写真工業」1996年6月号、コンタックスAXテクニカルレポートより)

 写真4からはどのようにしてバックフォーカスしているかわかりにくいですが、簡単にいうとボディの中に前後する小さな駆動ボディが入っている感じです。断面図から見るとボディ下部に組込まれた棒状の2本のセラミックシャフトを超音波モーターで駆動することにより駆動距離10mmを1.5回転で機械的にスムーズに制御してAF駆動するというのです。このセラミックレールとセラミック軸受けは金属よりも膨張係数も低く、μmの精度で加工されていて低温から高温まで円滑に作動するというのですが、京セラならではの技術であることは言うまでもありません。

≪写真5≫ 裏蓋を取り外したときのカメラ内フィルムハウジングの動き 

youtu.be

≪写真6≫ 裏蓋を取り外したときのフィルム圧板の動き。左が∞時、右が最短時 

 裏蓋を開けて見ると、まるでからくり箱のようで、どの部分がバックフォーカスするのかわかりにくかったのですが、取り外してあったバッテリーをセットするとフィルムガイドレール部分を含むフィルムハウジング部分がググッと前後するのです。さっそくその動作を写真に収めようとしましたが、AFの∞から最短までの動作が大変クイックで、静止画で撮影することはできなかったので動画で撮影し、1コマずつ送って最短時と∞時をキャプチャーして組み合わせ画像としました(写真5)。左が∞時、右が最短時となりますが、わかりますか? まさにからくり箱です。

 写真6は裏蓋を取り外したときのフィルム圧板の動きです。タスキがけになっていて、縮んで最短撮影時、伸びて∞時でしょうか。これを見てお分かりかと思いますが、レンズのヘリコイドを∞にセットしておけば普通に∞から最短撮影距離まで撮影でき、最短側に回転させておけば中間リングを入れたようになり、AFで接写ができるのです。

 AXはこのような特殊な機構からして、当然なこととして小型ではありませんでした。このころは各社とも高級機は連写高速コマ速度の確保、大容量バッテリーの搭載などから、重厚長大を目指した時代で、AXもそのような中にあって必ずしも大きいとはいえませんでしたが、コンタックス137MA比較してみると、やはり機構的にも小型化するのは難しかったことがわかります。

≪写真7≫ 左:コンタックスAX、右:コンタックス137MA(この137MAはヤシカ吸収合併のマスコミ向け発表会で稲盛社長の指示で参加社に配布されたもの。40年たった今でも電池を入れれば作動するのは立派です)

 これでコンタックスAXの概略を説明できたと思うので、本題に入りましょう。

 

コンタックスAXと京セラ230AF、そしてミノルタα-7000

 私は、一眼レフの本格的なAF化にあたって最初に製品化されたのは1985年に発売されたミノルタα-7000であったことは百も承知ですが、この時はボディ内に組込まれたAFセンサーとモーターにより交換レンズの進退を行うAFカプラー方式を採用していたのですが、実はこのAF方式は1982年のフォトキナでヤシカが技術参考品として展示した「コンタックス137AF」が採用していた方式だったのです。この時にはフォーカスエイド機でAFターゲット部が赤く光る光像式ファインダーを組み込んだ「ヤシカFA」も披露されたのです。結局、ボディ内測距/モーター、AFカプラー方式は1985年のミノルタα-7000で、光像式のファインダー搭載機は1990年のキヤノンEOS10QDで商品化されたのです。

 当時のヤシカ開発陣を取材した東京大学生産技術研究所の小倉磐夫教授から私が直接聞いた話では、その時期は京セラとの合併や相模原工場の労働争議などもありヤシカが経営的に窮していたときで、特許申請を行う余裕もなかったというのです。後にヤシカが特許申請を行ったらミノルタカメラが「ボディ内測距/モーター、AFカプラー方式」を1週間先行して申請していたために特許は認められなかったのです。ところが1982年のフォトキナ時に、先述の青木豊氏が写真工業の編集部に「コンタックス137AF試作機」を持参され、見せてくれると同時に外観を撮影させてくれたのです(写真8)。このことは「写真工業」1982年12月号に写真入りで記事として掲載されているのです。

≪写真8≫ 「写真工業」1982年12月号に掲載されたコンタックス137AF試作機とヤシカFA

 そこで私が疑問に思ったのは、特許としてはミノルタが取得しても、コンタックス137AFのカプラー方式は公知の事実ではないかということでした。ついでながらいうと「写真工業」は、カメラ誌の中で唯一特許庁に認められた技術雑誌であり、学術誌としても記事はいまでもJSTAGEからダウンロードできるのです。私は編集長時代には複数回異議申し立ての書類に署名していました(ヤシカ/京セラではありません)。

 京セラは1986年にAFカプラー方式の「京セラ230AF」を発売しています。この間にミノルタカメラとの間に何らかの取引があったのではないだろうかと、私は推測していたのです。その点に関して山本さんにお伺いすると、1982年のケルンのフォトキナには当時のヤシカの技術担当常務の菅谷勝彦さんがコンタックスAFを持参されたというのです。菅谷さんの帰国後談によると、一番興味を示したのがミノルタカメラで、アポイントを取って多くの技術者が熱心にコンタックスAFのプロトタイプを観察していったというのです。その時はミノルタα-7000の試作機はできていなかったが、商品化に向けた準備は着々と進められ、そのような企画商品があまりにも似ていたために驚愕したのではないかと思ったのです。そのような他社状況はつゆ知らず、ミノルタカメラ側からヤシカ特許部に使用許可や、クロスライセンスの交渉に来ていたというのです。

 続けて山本さんによると、『フォトキナに持ち込んだ試作品は、137MDボディを改良した方がマウントのカプラーを通してのレンズ駆動設計がしやすかったためで、当時ヤシカの社内では、特許ではミノルタカメラの方が若干早い出願もあり、社内ではこの方式でAFを製品化するのにはかなりの抵抗があったのです。やはりコンタックスブランドおよびツァイスレンズを重視すると、レンズのシステム変更に大きな壁がありました。それと、私としてはあの性能を重視したレンズ設計の中で、フォーカスのための駆動力がボディから得られるか不安だったこともあり、その後あまり積極的に推し進めることは控えていました。この時からやはりコンタックスはレンズを中心とする考えで本体を開発すべきという、信念に固まって来たような気がします』というのです。つまりコンタックスAXに対する構想は具体的な方策は別として、この時点でできあがっていたというわけです。一方、京セラブランドの一眼レフカメラはシステム作りが初期段階でもあり、AFカメラの開発企画は比較的簡単に進められることから、試作機コンタックス137AFは新規に京セラ230AFとして1986年に製品化されたのです。

 

≪写真9≫ 左:ミノルタα-7000(1985)、右:京セラ230AF(1986)

 これに関して山本さんは『レンズマウント面からの動力伝達機構はミノルタの方が若干先願でしたが、本体側のモーター内蔵機構では137MD開発で私が出願していた特許の方が早かったようです。そのようなミノルタの動きには137AFにそっくりなα-7000が近々発売されるとは夢ゆめ思っていませんでした。そのため京セラ230AFは1周遅れの発売でしたが、もともとミノルタも京セラも137AFをベースにした商品ですから、似ていて当然といえます。ミノルタもその事実は認めていますので問題は起きなかったのです』。これで京セラ230AFが、ミノルタα-7000から遅れることわずか1年後には発売できたという、私の疑問は解けたのです。その過程でわかったこととして先述の小倉磐夫先生が月刊「写真工業」で“カメラの性能と評価”という記事を連載していた時に京セラ230AFは、A~GまであるAFチャートにEV0まで反応し、最も難しいGチャートをクリアしたのです。これはAF開発のときにα-7000だけには負けたくないという技術者としての気概が現れたものとして当時関係者は喜んだそうですが、試験を手伝った私にはそのような認識はまったくありませんでしたし、AFセンサーは同じ東芝製であったのを別の特集をやって知りましたが、どうなのでしょう。当時の東芝のAFセンサーを開発していた技術者の方が身近にいらっしゃるので改めて聞いてみましょう。

 小倉先生の考案したAFチャートは、A~Gまで7種類あり、最も簡単なのは黒白の2分割、さらに白地に1mm幅の黒線というようにだんだん高度になるのですが、Gチャートは一番難しく、サイン波的なグラデーションで人間の肌を模したものとして設定されたもので、それぞれの照度を変えてEV0~EV12ぐらいまで実写して、レンズの停止までの動作と停止位置を測定するのです。照度はスライダックにより電圧を変えると色温度が変わるので、ランプの位置を徐々に離していき変化させるのです。このテストは小倉先生に代行して写真工業の会議室を使ってやりましたが、いまとなってはい良い思い出ですし、このような形で書きとどめておくことは大切なことだと思う次第です。せっかくですからさらに追加すると、この小倉式AFチャートは最初は手作りでしたが、各社から分けて欲しいというのでしっかりと図面に起こし製版屋さんで印画紙に出力して原価で分けましたが、いま考えると小倉先生に言われたように商品化した方がよかったのかもしれません(笑)。

 ちなみに菅谷さんは、1973年のコンタックス誕生の時には、カールツァイスとの交渉役の責任者でした。その後は1990年に発売されたコンタックスRTSⅢのバキューム式圧板などを担当されましたが、当時は神田錦町にあった東京電機大学精密機械工学科の教授でもあり、無類のカメラ好きで、月刊「写真工業」が書店に並ぶ前に錦町の電機大学5号館から直接神保町の写真工業出版社まで朝からサンダル履きで買いに来られるという方でした。

 これでコンタックスAXと京セラ230AFの関係が、どのように社内的コンセンサス得られていたのか不思議だった問題点も氷解しました。また今回の取材の段階で1980年に発売されたコンタックス137MDは、1つのモーターの正逆回転で、フィルムの巻き上げ、ミラー、絞り羽根のなどの駆動制御を行った機構は山本さんによる発明だったのを初めて知りました。やはり1979年に発売されたコニカFS-1はフィルムの自動装填、自動巻き上げを可能にした35mm一眼レフで、当時の開発部長であった内田康男さんが開発されたことは良く知っていました。ただ、コニカFS-1が2モーターであったのに対し、137MDは1個のモーターで正逆回転させ、一連の機械的カメラシーケンスを制御したというのは理解していましたが、ミノルタα-7000始めその後多くの自動巻き上げ一眼レフの規範になったということは、改めて認識した次第です。

 それにしても、京セラのコンタックスAXはボディ内フォーカスのAXにこだわったかということは、カールツァイスレンズをそのまま生かしてAF化するためであったことはわかるのですが、それを推進するためには何らかの後ろ盾があったのだろうと考えました。前述の小倉磐夫教授の執筆した朝日選書「国産カメラ開発物語」によると、1980年にヤシカの沼部分室にコンタックス137MDの取材で訪れたときに聞いた話として、あるとき山本さんが机に向かってAF一眼レフ試作機の調整に没頭していた時に背後に人影を感じ振り向くと、当時のヤシカ遠藤良三社長と背の高い紳士がじっと覗き込んでいたというのです。その人はオートフォーカスに興味を持っていたようですが、自らを名乗ることはなく、その後1983年に京セラがヤシカを吸収合併すると発表したときに、山本さんはその背の高い紳士が京セラの社長 稲盛和夫氏だったことを初めて知り、驚いたというのです。そこでせっかくだから、あえて書き添えますが、コンタックスAXが発売されたときに日本光学工業の技術上層部の人はお偉方に呼び出されて、なぜ京セラは既存のレンズでAF化を達成したのに、うちはレンズを新しくしたのかと、お小言を食らったというのです。どちらが正解であったか別として、実名は避けますが実話なのです。

 京セラ沼部分室は私も訪れたことがありますが、大田区田園調布で東急線沼部駅から歩いて10分くらいの所にある2階建ての木造建築で、元ニッカカメラの社屋だったのですが、何よりもヤシカのコーポレートカラーであったブルーに塗られているのに驚きました。当時ヤシカは渋谷区神宮前に立派なビルを建てたのですが、テナントに貸し、技術陣は一時的に沼部分室にいたのです。京セラに吸収合併されたときに技術陣は神宮前に戻り、その後は世田谷用賀の京セラの研究所に移りましたが、その時には山本さんはコンタックスRTSⅢの責任者だったのです。沼部分室は後日訪れてみると京セラ興産のマンションとなっていました。私が驚いたのは、ブルーに塗られた木造の沼部の社屋でしたが、実は神宮前にヤシカビルができる前にはヤシカ本社(写真10左)もブルーに塗られた木造の2階建て社屋だったのです。ここは元救世軍(Salvation Army)の士官学校で、明治通りから敷地内の小道を歩いて入ると玄関があり、正面から入るとエントランスと2階に通じる階段があり、もし現存するなら文化財級の建物という感じでした。ヤシカブルーに塗られた建物内には背の高い女性社員が忙しそうに動いていました。当時のヤシカ女子バレーボール部は強く、企業としての勢いを感じさせた思い出があります。

 

≪写真10≫ :私が神宮前のヤシカ本社に初めて訪れたのは1970年のことでした。この写真では壁が白く、YASHICAのロゴも古いので1960年代ではないかと考えられます(写真提供:青木豊右:ヤシカエレクトロAX(1972)

 

コンタックスAXとヤシカエレクトロAX

 コンタックスAXの紹介にあたり、1972年に発売された一眼レフに同じAXと付けられた「ヤシカエレクトロAX」(写真10右)がありましたが、その存在が気になりました。1971年に当時の旭光学工業は絞り優先AEの「アサヒペンタックスES」を発売しましたが、光量記憶回路と電子シャッターを採用した初のTTL絞り優先AE一眼レフカメラでした。ESではコンデンサーを利用して測光時の光量を対数圧縮して記憶し電子シャッターを制御するのが特許として認められ、多くの他メーカーが特許使用料を払ったのです。ところがペンタックスと同じM42スクリューマウントでありながら「ヤシカエレクトロAX」だけがこの特許を回避してTTL-AEを可能としたのですが、その電子回路を設計したのが山本さんだというのです。

 

≪写真11≫ アサヒペンタックスESのTTL-AE機構(国産カメラのメカニズム便覧、写真工業出版社、1973)

 

≪写真12≫ ヤシカAXのTTL-AE機構(国産カメラのメカニズム便覧、写真工業出版社、1973)

 このあたり当時の文献や広告では明らかにされていましたが、多くの人に認知される部分ではありませんでした。AFカプラーの件に対してもそうでしたが、山本さんとヤシカという企業が奥ゆかしかったというか控えめだったのでしょうか、エレクトロAXを調べていてそう思ったのは少しヨイショしすぎでしょうか(笑)。

 

≪写真13≫ コンタックスAXを最も使い倒した人、柳沢保正さんとその当時のアダプター類一式

 せっかくだからもう1つ。写真の方は元朝日新聞記者の柳沢保正さん(写真12左)といいますが、私が見てきた限りコンタックスAXをとことん使い倒してきた大のカメラ好きです。右は、柳沢さんのAXとレンズマウントアダプターですが、これを使って古いレンズを使いAFで撮影して本まで出したのです。時代は変わり柳沢さんは、いまでは毎日ミラーレス一眼にオールドレンズを付けて街にでて木村伊兵衛さんのようにスナップ撮影の日々なのです。御年80歳超え、山本さんの記念モデルを持ってもらいましたが、構え方が自然に決まっていますよね。  (^_-)-☆

シグマ60~600mmF4.5-5.6DG DN OS |Sportsを使ってみました

 シグマから高倍率・超望遠のズームレンズ「SIGMA 60~600mmF4.5-5.6DG DN OS |Sports」が、CP+2023直前の2023年2月17日から発売されました。CP+の会場では他社も含め見るものも多く、ちらりと横目で見る感じでしたが、個人的な指向からすると超望遠のレンズには大変興味があるのです。それというのも、ここ数年来、ミラーレス一眼の最新機種をいじっていて、その機能を十分に生かすのは超望遠系だと思うようになったのです。その内訳は、小さくてすばしっこいカワセミ、どんどん迫ってくる飛行機や列車を撮影するには、超望遠を使って、毎秒何コマ撮影できるか、AFはどこまで追随できるかなどです。これらに加え当然のこととして高解像であることが望まれるわけですが、そんなことを繰り返していたらいつの間にかその方面に興味がわき、コロナ禍とはいえ、カワセミオオタカは近所の八国山緑地や水元公園へ、飛行機は、座間基地、横田基地、入間基地、さらには松本空港沖縄県の瀬永島へ出向くほどでしたが、やはりロケーションさえよければ標準ズームでも良いのですが、目では見えなくてもはるか遠方から爆音で迫ってくる飛行機を遠くからアップで追い続けるためには、高倍率のズームレンズが最適なわけで、それを使うことがひそかな願望でもありました。もちろんこの分野には、野球やサッカー、自動車レース、舞台などもあるのですが、一般人が手を出しやすいのは、野鳥、飛行機、列車、といったところでしょうか。

 そんな時にシグマが「新製品貸出し体験会 2023 Spring in 東京」を4月8日(土)に開催すると告知しました。会場は九段会館テラス3階で、身分証明があれば無料で新製品を2時間貸し出してくれるというのです。地の利も職場から近いこともあり、あいにくの薄曇りでしたが、朝一番で少しだけ顔を出し「シグマ 60~600mmF4.5-5.6DG DN」をちょっとだけ試用しましたので簡単に実写結果を報告します。

 

≪シグマの試用会ということでfpを持参、フードを取り付け最長600mmにセット:左≫ 右上:フードなし60mm時の寸法と重さ、右下:焦点距離60mmと600mm時のレンズの動き。ズーム方式は直進と回転に対応し、ズームロックスイッチあり。レンズ構成は19群27枚、フィルター径105mmφ、大きさ:119.4mmφ×279.2mm、重さ2,495g、価格:368,500円、発売:2023年2月17日

 最初にレンズを渡されたときに、ボディへの装着は簡単に行えましたが、いざ持とうとすると3.5㎏近くあり簡単には持てません。万が一落下させても困るので、ストラップはボディ側とレンズ側のダブルで首から吊り下げるということになりました。その状態で歩き、ベンチに置き、上左)の姿写真を撮りましたが、いざカメラを構えてみると、不思議と背面液晶画面に目を近づけてしまうのです。ふだんからEVFのないカメラも使っているのになぜだろうと考えましたら、腕を伸ばしてレンズの着いたボディを目視位置に持っていくのは重くてできないため、落とさないように自然に背面液晶部分をのぞこうとしたのです。このためにはfpにEVFがあればよかったのです。もっと簡単に言えば、EVFとグリップのあるルミックスS1-Rかソニーα7系のボディを持参すれば良かったのです。つまり、総重量を考えずにfpを持参した、私の作戦ミスなのです。

 

■いろいろと撮影してみました

 曇天のなか限られた時間でしたが、それでも何とか使ってみました。今回のfpでの撮影は、基本的にAUTOつまりプログラムAEで行いました。実は、私はカメラの性格を知りたいときはいつもプログラムAEで撮影しています。もちろん特定の意思をもって撮影するときは、その限りではないのですが、カメラに対して開発陣がどのような考えを持っているかがわかるのです。カメラのプログラムラインはさまざまな要素が加味されるのですが、明るさ、撮影レンズの焦点距離、被写体までの距離、静止物か動体か、被写体の輝度分布や色傾向など、メーカーのノウハウを集約させた部分として『絞り値とシャッター速度』が決まるのですが、最新のデジタルカメラではさらに『感度の自動可変』の要素が加わり露出が決まり『絞り値とシャッター速度と感度』が自動的に変わるのです。そのプログラムでの結果では、自分のイメージする写真が撮れないときに、目的にかなった絞り優先AE設定などを行うわけです。カラー設定は、最新のファームアップで加わったウオームゴールド色にセットしました。

≪画角変化を見る:60mm≫ F4.5・1/60秒、ISO100。まずは10倍という高倍率を見るためには、いくらスポーツという名称であっても固定された不動のものを写してみると、そのズーム倍率の違いに驚きます。被写体は、九段会館テラスから見える、1964年の東京オリンピック時に建てられた山田守氏設計の日本武道館。屋根のてっぺんは擬宝珠(ぎぼうし)とか「大きな玉ねぎ」とも呼ばれるもので、屋根のカーブは富士山に倣っているとされています。いずれにしても曇天で、やはり写真は青空の下で撮りたいとつくづく思う次第です。

≪画角変化を見る:600mm≫  F6.3・1/400秒、ISO100。日本武道館てっぺんの玉ねぎがこのように微細に見えるのは、さすが10倍のズーム倍率はすごいです。画面上の玉ねぎ横幅を測ってみると60mmのほぼ10倍あります。この金色は金なのでしょうか、その下の8角形の台座の部分は、鑑賞倍率によってはモアレが発生して見えますが、元画像にはモアレは発生していなく、モニターや拡大率を変えれば解消します。

≪入学式会場への道≫ 焦点距離600mm、  F6.3・1/320秒、ISO800。ほぼ葉桜の日でしたが、当日は日本大学の入学式で、九段会館テラスの手すりにレンズの三脚座部分を軽く置き、会場への案内看板と向かう人にシャッターを切りました。決して安定して固定されているわけではありませんが、このレンズのシャープさがよくわかるカットだと思います。

≪枯れた睡蓮の茎≫ 焦点距離600mm、 F6.3・1/320秒、ISO800。冬枯れした睡蓮の茎が頭が重く折れるのでしょうか、水面との反射で幾何学的な模様を示し、さまざまな形をして冬の風物詩としておもしろいのです。

≪桜の花と虫≫ 焦点距離412mm、 F6.3・1/520秒、ISO800。桜の古木の脇から、芽がでていて花が咲いていたので撮影しました。画面としてはこの状態でノートリミングですから、望遠マクロ撮影となります。撮影時には、フレーミングとAFでやっとでしたが、撮影後PCのモニター上で拡大すると、なんと小さな虫がいるのです。画素等倍まで拡大して見ると虫の目玉まで見えて、やはり解像の高さを示す結果となりました。

≪水面を行くオオバン焦点距離600mm、 F6.3・1/320秒、ISO500、-0.3EV補正。今回の撮影で最もSportsの名にふさわしい被写体でした。動きの速いオオバンを追って、AFでタイミングを見てシャッターを押すのですが、私の指先のタイムラグと、カメラのタイムラグが相乗してなかなか思ったようなカットがとれないのです。単写で撮影したのがまず第1の敗因で、撮影モードとカメラの選択を間違えたというのが正直な印象です。複数コマで何とか押さえたのがこの1枚でした。

≪ブラインドを閉じた室内でレンズの解説をする写真家 山口規子先生≫ 焦点距離62mm、 F9.1・1/320秒、ISO4000、+1EV補正。最前列の席に陣取り、ほかの方々のじゃまにならないようにと右端にいて、先生のお顔にフォーカスしました。スクリーンに映写する暗い環境で、その場の光だけで撮影しましたが、拡大して見るとぶれていなく、レンズ性能としては高解像ですが、拡大に耐えるお顔も素晴らしいです。

 

■終わりに

 今回の「シグマ 60~600mmF4.5-5.6DG DN OS」という最新の10倍高倍率ズームレンズの試用は極めて限られた時間でしたが、三脚なし(持参しなかったこともありますが、テラスでは三脚・一脚の使用は禁止でした)で使用しました。使ったボディfpには機械的な手ブレ補正機構はありませんが、レンズ側で約6.5段の補正効果があるというのです。どおりで簡易な撮影でもブレを感じるカットはなかったのも素晴らしいことだと思うのです。

 時間が許せば新しい飛行機の発着の撮影場所として、最近話題のキヤノンニコンのオフィスがある品川のインターシティーに出向くのも手軽でよいかなと思いました。さらに欲を言えば、OMデジタルに搭載のプロキャプチャーのようなシャッターを切る前にさかのぼって撮影画像が得られる機能などもカメラに欲しい機能だと思うし、目的にかなった機材で撮影システムを組み上げれば、一般の人でもさまざまな被写体で、かなりハイレベルの写真が撮れるようになったのが、現在だと思うのです。このように最新の技術の上に成り立つのが写真の進歩だと思うし、過去から現在に至るまでその進歩が撮影可能範囲、表現の範囲を広げてきていると考える次第です。 (^_-)-☆