■京セラ 稲盛名誉会長とコンタックスAX
2022年9月1日付のはてなブログ「写真にこだわるの」に“京セラ 稲盛和夫名誉会長を偲んで”という記事を載せたところ、ヤシカ/京セラ時代からの知り合いである青木豊さんから、その部分をコピーして、ヤシカ/京セラ時代のOBの方々に配布したという連絡をいただきました。青木さんは、稲盛さんが亡くなられて、カメラに関係した情報がないだろうかとWeb上で「稲盛和夫/カメラ/京セラ」と検索したところ、トップに「写真にこだわる」のブログ記事が出てきたので、読んでみると、執筆は良く知る私だったのでビックリしたというのです。その追悼記事のあらすじは、京セラが1983年にヤシカを吸収合併し、2005年にカメラ事業から撤退したが、その間22年間ユニークなカメラ作りを通せたのは稲盛さんのカメラに対する理解があってのものだった、という主旨でした。
その配布された記事を読まれたヤシカ/京セラ時代からのカメラ技術者であった山本勝(写真2)さんから青木さんに連絡があり、山本さんの名前入りで、シリアルナンバー100001の「コンタックスAX」が手元にあるので、私に託して日本カメラ博物館に寄贈したいというのです。コンタックスAXは、既存のヤシカ/コンタックスマウントレンズをそのままでAFを可能とするバックフォーカシング(フィルム面フォーカシング)の35mm一眼レフで、1996年に発売されました。古くはスプリングカメラの「マミヤ6」にも採用された焦点調節方式で、それをレンズ交換式の一眼レフでAF化したことが驚きでした。
≪写真1≫ 標準レンズ、カールツァイスプラナーT*50mmF1.4を装着した「コンタックスAX」
当時、山本勝さんがコンタックスAXの開発を担当されていたことを私は知っていましたが、コンタックスAXに添付されていた山本さんからのお手紙によると、山本さんが定年した後の1996年の5月にAXが発売されたため、『新製品を手にとって見ることが叶わないままに去ってしまうのを気の毒がったカメラ開発部の人たちはもちろんのこと、製造や営業の人たちからも浄財を募り、そのお金で購入して贈られた思いで深いカメラで、記念品として製造1号機(シリアルナンバー100001)を選び、さらに名前まで刻印した製品に仕上げて贈っていただいた』カメラで、しかもその募金の旗振りをしたのが当時経営企画室でコンタックス事業推進を担当していた青木豊さんだというのです。コンタックスAXと京セラ230AF、さらにはミノルタα-7000やその時代のAF技術にはいくつか思うところがあったので、せっかくの機会ですから、コンタックスAXを紹介すると同時に周辺についても書き記してみることにしました。
≪写真2≫ 山本勝さん、コンタックスAXを手に(現在)と現役時代(59歳)
■コンタックスAXとは
写真3は、AXを手にした状態で各操作部がわかるような角度から撮影。トップカバー左肩に記念モデルであることを示す刻印が施されています
まず、コンタックスAXとはどんなカメラだったか、発売後30年近く経つとわからない方も多いでしょうから簡単に紹介します。写真1は、50mm標準レンズを装着したコンタックスAXです。写真3は、AXを手にした状態で各操作部がわかるような角度から撮影。トップカバー左肩に記念モデルであることを示す刻印が施されています。マニュアルフォーカスのレンズが付いていることから外観からはAF機であることはわかりにくいですが、トップカバー右上にはSAFとCAFを切り替えるドライブ切替えスイッチ、さらに右肩部にはAF・AFLのフォーカス切替えスイッチがあることにより、AF一眼レフであることがわかります。カメラを構えて、このAF・AFLの切替えスイッチの中央のボタンを右手親指で押し込むとAFが作動してピントが合います。では、どういう仕組みでAFが可能なのか見てみましょう。
≪写真4≫ 左:裏蓋を外した状態。右:AXの中央断面を示しました。(月刊「写真工業」1996年6月号、コンタックスAXテクニカルレポートより)
写真4からはどのようにしてバックフォーカスしているかわかりにくいですが、簡単にいうとボディの中に前後する小さな駆動ボディが入っている感じです。断面図から見るとボディ下部に組込まれた棒状の2本のセラミックシャフトを超音波モーターで駆動することにより駆動距離10mmを1.5回転で機械的にスムーズに制御してAF駆動するというのです。このセラミックレールとセラミック軸受けは金属よりも膨張係数も低く、μmの精度で加工されていて低温から高温まで円滑に作動するというのですが、京セラならではの技術であることは言うまでもありません。
≪写真5≫ 裏蓋を取り外したときのカメラ内フィルムハウジングの動き
≪写真6≫ 裏蓋を取り外したときのフィルム圧板の動き。左が∞時、右が最短時
裏蓋を開けて見ると、まるでからくり箱のようで、どの部分がバックフォーカスするのかわかりにくかったのですが、取り外してあったバッテリーをセットするとフィルムガイドレール部分を含むフィルムハウジング部分がググッと前後するのです。さっそくその動作を写真に収めようとしましたが、AFの∞から最短までの動作が大変クイックで、静止画で撮影することはできなかったので動画で撮影し、1コマずつ送って最短時と∞時をキャプチャーして組み合わせ画像としました(写真5)。左が∞時、右が最短時となりますが、わかりますか? まさにからくり箱です。
写真6は裏蓋を取り外したときのフィルム圧板の動きです。タスキがけになっていて、縮んで最短撮影時、伸びて∞時でしょうか。これを見てお分かりかと思いますが、レンズのヘリコイドを∞にセットしておけば普通に∞から最短撮影距離まで撮影でき、最短側に回転させておけば中間リングを入れたようになり、AFで接写ができるのです。
AXはこのような特殊な機構からして、当然なこととして小型ではありませんでした。このころは各社とも高級機は連写高速コマ速度の確保、大容量バッテリーの搭載などから、重厚長大を目指した時代で、AXもそのような中にあって必ずしも大きいとはいえませんでしたが、コンタックス137MA比較してみると、やはり機構的にも小型化するのは難しかったことがわかります。
≪写真7≫ 左:コンタックスAX、右:コンタックス137MA(この137MAはヤシカ吸収合併のマスコミ向け発表会で稲盛社長の指示で参加社に配布されたもの。40年たった今でも電池を入れれば作動するのは立派です)
これでコンタックスAXの概略を説明できたと思うので、本題に入りましょう。
■コンタックスAXと京セラ230AF、そしてミノルタα-7000
私は、一眼レフの本格的なAF化にあたって最初に製品化されたのは1985年に発売されたミノルタα-7000であったことは百も承知ですが、この時はボディ内に組込まれたAFセンサーとモーターにより交換レンズの進退を行うAFカプラー方式を採用していたのですが、実はこのAF方式は1982年のフォトキナでヤシカが技術参考品として展示した「コンタックス137AF」が採用していた方式だったのです。この時にはフォーカスエイド機でAFターゲット部が赤く光る光像式ファインダーを組み込んだ「ヤシカFA」も披露されたのです。結局、ボディ内測距/モーター、AFカプラー方式は1985年のミノルタα-7000で、光像式のファインダー搭載機は1990年のキヤノンEOS10QDで商品化されたのです。
当時のヤシカ開発陣を取材した東京大学生産技術研究所の小倉磐夫教授から私が直接聞いた話では、その時期は京セラとの合併や相模原工場の労働争議などもありヤシカが経営的に窮していたときで、特許申請を行う余裕もなかったというのです。後にヤシカが特許申請を行ったらミノルタカメラが「ボディ内測距/モーター、AFカプラー方式」を1週間先行して申請していたために特許は認められなかったのです。ところが1982年のフォトキナ時に、先述の青木豊氏が写真工業の編集部に「コンタックス137AF試作機」を持参され、見せてくれると同時に外観を撮影させてくれたのです(写真8)。このことは「写真工業」1982年12月号に写真入りで記事として掲載されているのです。
≪写真8≫ 「写真工業」1982年12月号に掲載されたコンタックス137AF試作機とヤシカFA
そこで私が疑問に思ったのは、特許としてはミノルタが取得しても、コンタックス137AFのカプラー方式は公知の事実ではないかということでした。ついでながらいうと「写真工業」は、カメラ誌の中で唯一特許庁に認められた技術雑誌であり、学術誌としても記事はいまでもJSTAGEからダウンロードできるのです。私は編集長時代には複数回異議申し立ての書類に署名していました(ヤシカ/京セラではありません)。
京セラは1986年にAFカプラー方式の「京セラ230AF」を発売しています。この間にミノルタカメラとの間に何らかの取引があったのではないだろうかと、私は推測していたのです。その点に関して山本さんにお伺いすると、1982年のケルンのフォトキナには当時のヤシカの技術担当常務の菅谷勝彦さんがコンタックスAFを持参されたというのです。菅谷さんの帰国後談によると、一番興味を示したのがミノルタカメラで、アポイントを取って多くの技術者が熱心にコンタックスAFのプロトタイプを観察していったというのです。その時はミノルタα-7000の試作機はできていなかったが、商品化に向けた準備は着々と進められ、そのような企画商品があまりにも似ていたために驚愕したのではないかと思ったのです。そのような他社状況はつゆ知らず、ミノルタカメラ側からヤシカ特許部に使用許可や、クロスライセンスの交渉に来ていたというのです。
続けて山本さんによると、『フォトキナに持ち込んだ試作品は、137MDボディを改良した方がマウントのカプラーを通してのレンズ駆動設計がしやすかったためで、当時ヤシカの社内では、特許ではミノルタカメラの方が若干早い出願もあり、社内ではこの方式でAFを製品化するのにはかなりの抵抗があったのです。やはりコンタックスブランドおよびツァイスレンズを重視すると、レンズのシステム変更に大きな壁がありました。それと、私としてはあの性能を重視したレンズ設計の中で、フォーカスのための駆動力がボディから得られるか不安だったこともあり、その後あまり積極的に推し進めることは控えていました。この時からやはりコンタックスはレンズを中心とする考えで本体を開発すべきという、信念に固まって来たような気がします』というのです。つまりコンタックスAXに対する構想は具体的な方策は別として、この時点でできあがっていたというわけです。一方、京セラブランドの一眼レフカメラはシステム作りが初期段階でもあり、AFカメラの開発企画は比較的簡単に進められることから、試作機コンタックス137AFは新規に京セラ230AFとして1986年に製品化されたのです。
≪写真9≫ 左:ミノルタα-7000(1985)、右:京セラ230AF(1986)
これに関して山本さんは『レンズマウント面からの動力伝達機構はミノルタの方が若干先願でしたが、本体側のモーター内蔵機構では137MD開発で私が出願していた特許の方が早かったようです。そのようなミノルタの動きには137AFにそっくりなα-7000が近々発売されるとは夢ゆめ思っていませんでした。そのため京セラ230AFは1周遅れの発売でしたが、もともとミノルタも京セラも137AFをベースにした商品ですから、似ていて当然といえます。ミノルタもその事実は認めていますので問題は起きなかったのです』。これで京セラ230AFが、ミノルタα-7000から遅れることわずか1年後には発売できたという、私の疑問は解けたのです。その過程でわかったこととして先述の小倉磐夫先生が月刊「写真工業」で“カメラの性能と評価”という記事を連載していた時に京セラ230AFは、A~GまであるAFチャートにEV0まで反応し、最も難しいGチャートをクリアしたのです。これはAF開発のときにα-7000だけには負けたくないという技術者としての気概が現れたものとして当時関係者は喜んだそうですが、試験を手伝った私にはそのような認識はまったくありませんでしたし、AFセンサーは同じ東芝製であったのを別の特集をやって知りましたが、どうなのでしょう。当時の東芝のAFセンサーを開発していた技術者の方が身近にいらっしゃるので改めて聞いてみましょう。
小倉先生の考案したAFチャートは、A~Gまで7種類あり、最も簡単なのは黒白の2分割、さらに白地に1mm幅の黒線というようにだんだん高度になるのですが、Gチャートは一番難しく、サイン波的なグラデーションで人間の肌を模したものとして設定されたもので、それぞれの照度を変えてEV0~EV12ぐらいまで実写して、レンズの停止までの動作と停止位置を測定するのです。照度はスライダックにより電圧を変えると色温度が変わるので、ランプの位置を徐々に離していき変化させるのです。このテストは小倉先生に代行して写真工業の会議室を使ってやりましたが、いまとなってはい良い思い出ですし、このような形で書きとどめておくことは大切なことだと思う次第です。せっかくですからさらに追加すると、この小倉式AFチャートは最初は手作りでしたが、各社から分けて欲しいというのでしっかりと図面に起こし製版屋さんで印画紙に出力して原価で分けましたが、いま考えると小倉先生に言われたように商品化した方がよかったのかもしれません(笑)。
ちなみに菅谷さんは、1973年のコンタックス誕生の時には、カールツァイスとの交渉役の責任者でした。その後は1990年に発売されたコンタックスRTSⅢのバキューム式圧板などを担当されましたが、当時は神田錦町にあった東京電機大学精密機械工学科の教授でもあり、無類のカメラ好きで、月刊「写真工業」が書店に並ぶ前に錦町の電機大学5号館から直接神保町の写真工業出版社まで朝からサンダル履きで買いに来られるという方でした。
これでコンタックスAXと京セラ230AFの関係が、どのように社内的コンセンサス得られていたのか不思議だった問題点も氷解しました。また今回の取材の段階で1980年に発売されたコンタックス137MDは、1つのモーターの正逆回転で、フィルムの巻き上げ、ミラー、絞り羽根のなどの駆動制御を行った機構は山本さんによる発明だったのを初めて知りました。やはり1979年に発売されたコニカFS-1はフィルムの自動装填、自動巻き上げを可能にした35mm一眼レフで、当時の開発部長であった内田康男さんが開発されたことは良く知っていました。ただ、コニカFS-1が2モーターであったのに対し、137MDは1個のモーターで正逆回転させ、一連の機械的カメラシーケンスを制御したというのは理解していましたが、ミノルタα-7000始めその後多くの自動巻き上げ一眼レフの規範になったということは、改めて認識した次第です。
それにしても、京セラのコンタックスAXはボディ内フォーカスのAXにこだわったかということは、カールツァイスレンズをそのまま生かしてAF化するためであったことはわかるのですが、それを推進するためには何らかの後ろ盾があったのだろうと考えました。前述の小倉磐夫教授の執筆した朝日選書「国産カメラ開発物語」によると、1980年にヤシカの沼部分室にコンタックス137MDの取材で訪れたときに聞いた話として、あるとき山本さんが机に向かってAF一眼レフ試作機の調整に没頭していた時に背後に人影を感じ振り向くと、当時のヤシカ遠藤良三社長と背の高い紳士がじっと覗き込んでいたというのです。その人はオートフォーカスに興味を持っていたようですが、自らを名乗ることはなく、その後1983年に京セラがヤシカを吸収合併すると発表したときに、山本さんはその背の高い紳士が京セラの社長 稲盛和夫氏だったことを初めて知り、驚いたというのです。そこでせっかくだから、あえて書き添えますが、コンタックスAXが発売されたときに日本光学工業の技術上層部の人はお偉方に呼び出されて、なぜ京セラは既存のレンズでAF化を達成したのに、うちはレンズを新しくしたのかと、お小言を食らったというのです。どちらが正解であったか別として、実名は避けますが実話なのです。
京セラ沼部分室は私も訪れたことがありますが、大田区田園調布で東急線の沼部駅から歩いて10分くらいの所にある2階建ての木造建築で、元ニッカカメラの社屋だったのですが、何よりもヤシカのコーポレートカラーであったブルーに塗られているのに驚きました。当時ヤシカは渋谷区神宮前に立派なビルを建てたのですが、テナントに貸し、技術陣は一時的に沼部分室にいたのです。京セラに吸収合併されたときに技術陣は神宮前に戻り、その後は世田谷用賀の京セラの研究所に移りましたが、その時には山本さんはコンタックスRTSⅢの責任者だったのです。沼部分室は後日訪れてみると京セラ興産のマンションとなっていました。私が驚いたのは、ブルーに塗られた木造の沼部の社屋でしたが、実は神宮前にヤシカビルができる前にはヤシカ本社(写真10左)もブルーに塗られた木造の2階建て社屋だったのです。ここは元救世軍(Salvation Army)の士官学校で、明治通りから敷地内の小道を歩いて入ると玄関があり、正面から入るとエントランスと2階に通じる階段があり、もし現存するなら文化財級の建物という感じでした。ヤシカブルーに塗られた建物内には背の高い女性社員が忙しそうに動いていました。当時のヤシカ女子バレーボール部は強く、企業としての勢いを感じさせた思い出があります。
≪写真10≫ 左:私が神宮前のヤシカ本社に初めて訪れたのは1970年のことでした。この写真では壁が白く、YASHICAのロゴも古いので1960年代ではないかと考えられます(写真提供:青木豊) 右:ヤシカエレクトロAX(1972)
コンタックスAXの紹介にあたり、1972年に発売された一眼レフに同じAXと付けられた「ヤシカエレクトロAX」(写真10右)がありましたが、その存在が気になりました。1971年に当時の旭光学工業は絞り優先AEの「アサヒペンタックスES」を発売しましたが、光量記憶回路と電子シャッターを採用した初のTTL絞り優先AEの一眼レフカメラでした。ESではコンデンサーを利用して測光時の光量を対数圧縮して記憶し電子シャッターを制御するのが特許として認められ、多くの他メーカーが特許使用料を払ったのです。ところがペンタックスと同じM42スクリューマウントでありながら「ヤシカエレクトロAX」だけがこの特許を回避してTTL-AEを可能としたのですが、その電子回路を設計したのが山本さんだというのです。
≪写真11≫ アサヒペンタックスESのTTL-AE機構(国産カメラのメカニズム便覧、写真工業出版社、1973)
≪写真12≫ ヤシカAXのTTL-AE機構(国産カメラのメカニズム便覧、写真工業出版社、1973)
このあたり当時の文献や広告では明らかにされていましたが、多くの人に認知される部分ではありませんでした。AFカプラーの件に対してもそうでしたが、山本さんとヤシカという企業が奥ゆかしかったというか控えめだったのでしょうか、エレクトロAXを調べていてそう思ったのは少しヨイショしすぎでしょうか(笑)。
≪写真13≫ コンタックスAXを最も使い倒した人、柳沢保正さんとその当時のアダプター類一式
せっかくだからもう1つ。写真の方は元朝日新聞記者の柳沢保正さん(写真12左)といいますが、私が見てきた限りコンタックスAXをとことん使い倒してきた大のカメラ好きです。右は、柳沢さんのAXとレンズマウントアダプターですが、これを使って古いレンズを使いAFで撮影して本まで出したのです。時代は変わり柳沢さんは、いまでは毎日ミラーレス一眼にオールドレンズを付けて街にでて木村伊兵衛さんのようにスナップ撮影の日々なのです。御年80歳超え、山本さんの記念モデルを持ってもらいましたが、構え方が自然に決まっていますよね。 (^_-)-☆