写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

写真のもつ立体感“入江泰吉作品展「大和路郷愁」”より

  追記:写真画質の専門家からご意見をいただきました。巻末までご覧ください。

 いつもさまざまな写真家の作品を鑑賞していますが、先日JCIIフォトサロンで“入江泰吉作品展「大和路郷愁」”を見ていてびっくりしたことが起きました。それというのも、会期最初に見たときは、しっかり見ようと作品に近づいて目を凝らして鑑賞ていたのですが、どうも昨今の写真に比べるとピントの甘さが気になったのです。展示作品は半切モノクロが約85点で、入江泰吉が、昭和20年代から30年代に撮影した大和路の風景や当時の暮らしぶりをスナップしたものでしたが、その時代のカメラ技術ではそんなところだったのだろうと、考えていたのです。

≪古都遠望、1957頃、“入江泰吉作品展「大和路郷愁」”より≫

≪会場展示の一部≫
 ところが改めて後日、展示会場に入り、作品と距離をとって見渡してびっくりしました。すべての作品が、ものすごく立体的に見えるのです。不思議な現象でした。何人か他の人にも同じようにして見てもらうと、異口同音に立体的に見えるというのです。使用したカメラとしてズミクロン50mmF2付きのライカM3(1954年)とトリオター7.5cmF4.5付きのローライコードI(1933年)が展示されていましたが、なぜ立体的に見えるのだろうかと、一般的に考えられるであろう理由をいくつかあげてみました。

1)入江泰吉の作風は立体的に見えるような構図の選択が多い。
2)入江泰吉の作品はパンフォーカス的でなく、手前の被写体にピントを合わせているのが多い。
3)フィルムカメラで撮影したから。
4)どちらもドイツ製のライカとローライで撮影したから。
5)どちらも標準レンズで撮影したから。
6)当時の黒白フィルムは乳剤層が厚かったから階調が豊かだった。
7)当時のフィルムは使用する銀量が多かったから階調が豊かだった。
8)当時はあまりやらなかったであろう、プリント拡大率が半切と大きいので近くから見ると甘く見えるが、距離をとって見ると写真が階調的につながりをもって見ることができる。
9)バライタ印画紙で焼いているから。

 などなど、いずれも銀塩フィルム派なら喜びそうなことをあえて、上げ連ねてみましたが、当たらずとも遠からずといった感じです。では、現在のデジタルカメラではどうなのでしょうか?、まさか写真はデジタルカメラだと立体的な描写は得られないというようなことはありません。それはないはずですが、高画素タイプ(画素ピッチの細かい)の撮像素子になると、特定の場面では立体感が薄れるということは現実としてあります。こういう写真のもつ特性について、どこか大学の先生が解明してくれると助かるのです。いまや写真はエンジニア的な側面より、芸術的な部分での作品制作や写真史の研究が盛んですが、こういうことも研究テーマとして加わるといいなと思った次第です。入江泰吉作品展の会期は7月31日(日曜日)まで、百聞は一見に如かず、だまされたと思って、ぜひ足を運んで、作品を近くから・遠くからじっくり鑑賞してください。僕のいってることがお分かりいただけると思います。 (^_-)-☆

 ●写真画質の専門家、水口淳さんからのメール

 ちょっと気づくのが遅れたのですが、入江泰吉さんの写真に関するブログを先ほど拝見しました。じつは、先日、入江さんの写真展を見てまったく同じことを感じていました。画質の専門家として以前から問題意識を持っていたことでもありましたので、うれしくなってついメールをお送りしたという次第です。すみません。
 銀塩で、より立体感が感じられる理由も、もちろんあるのですが、ディジタルの側が立体感を損ねているというのも、両者の差を感じる大きな原因だと思っています。
 ディジタルで立体感がなくなる理由のひとつは、シャープネスの過度の強調にあります。シャープネスの補正は、レンズ等のMTF低下を補償し画質を向上させるたいへん有効な手段なのですが、記録された画像に適用するため、残念ながらレンズ性能によるMTF低下とデフォーカスによるMTF低下の区別ができません。
 過度に適用すると、デフォーカスによるボケが不自然になり、立体感を損ねてしまうのです。ディジタルの作品で、過度にシャープネスを適用してペラペラに薄っぺらく立体感が台無しになった作品を見るたび、残念な思いを抱いていました。今回の入江さんの作品は、必ずしもこのような小デフォーカスの部分を含むものばかりではありませんので、銀塩ならではの部分も含んでいると思います。
 それは、ディジタルよりも高い空間周波数が存在することと、現像効果によるシャープネス補正効果がディジタルとは異なった効き方をすること、それが鑑賞距離にうまく合致していること、などが関係していると思っています。少し前、日大さんのオリジナルプリント展でアダムスやウエストンの作品を見たのですが、高い周波数まで存在することによる、それは見事な立体感を感じました。
 これらのことは、ちゃんと調べて裏付けをとり、どこかで発表でもできればと思っているのですが、さて、ブログに書かれていたような市川さんのご期待にお応えできる日がくるかどうか・・・
注)文章は原文のままです。みなぐち じゅんさんは、日本写真学会会員で、ミノルタソニーでカメラ開発を担当していました。  (20160803)

  さらなる続報です
●高橋 光太郎さんから
 市川さんの記事に関心を持ちつつ、私も先日この展覧会を拝見しましたが、立体感というか、遠近感というキーワードが頭に浮かびました。展示されていた多くの写真において、遠くの風景が霞んだように見え、実体より遠近感が強調されているように感じました。今のカメラやレンズは、遠くまで解像し過ぎて、もはや人間の感覚とのズレが出てきているのではないかと思った次第です。

●いはら ほつみさんから
 こちらの記事は私がデジタルで立体感を出すために行っている処理と考え方がにています。私の場合は鑑賞距離を考慮しながら解像感を落とす処理をしています。その上で少し細かい領域で明暗を強調していきます。人間の目にとってもっとも心地良い絵柄の細かさが画像の領域領域に応じて違った細かさであるなとは、経験値として思っております。おそらく、撮影時に明暗部をどう見極めてフレーミングをしているか、プリントワークの際に立体感をますようにどう焼き込み覆い焼きをするかそのあたりにかなと想像いたします。ちなみに、このあたりの技術を身につける上で一番役にたったのは、女性のメイクの方法で、それが、立体感をどう強調するかの最も良い解になっていると思いました。
●山木 和人さんから
 たいへん興味深く読ませていただきました。デジタル画像の場合、ナイスキト周波数が絶対的な解像限界を決めてしまうということも影響しているかもしれませんね。入江さんの展示会は拝見していませんが、作例にあるような作品の場合には、人間の視覚には近くにあるものの方がコントラスト高く、ディテールも見えて、遠くになるにつれてだんだんぼやけていくというのが通常の視覚体験だと思いますが、デジタルだとナイスキト周波数内にあるものは遠景にあるものも解像してしまい、視覚体験との逆転現象が起きることもあるのではないでしょうか?それに水口さんが指摘されたような輪郭強調が行われると、必要以上に山の稜線などがコントラスト高く見えてしまい不自然に見えるということがあるのかもしれません。本当のところはよくわかりませんが。

●山田 久美夫さんから
 遠近感や立体感を自然な形で強調する処理については、デジタルの時代になって、作者自身ができるようになったため、ご自身で画像処理をされるかたは、多かれ少なかれ、実践していると思われます(効果が出ているかどうかは別にして)。画像処理による、階調や色調、輪郭強調なノイズリダクションなどなどを駆使して、作者の意図を視覚的に伝わりやすくする作業が、作者自身の手で出来るのが、デジタルの最大の強み。しかし、いわゆる視覚誘導や細部調整による心理的な効果については、これまで、各自のノウハウとして蓄積されており、あまり表に出てこないのが現状です。もし、銀塩には感じられ、デジタルに感じられないのであれば、それはまだ、写真家側、もしくはもとの絵作りをするメーカー側が、デジタルを使いこなし切れていないということではないでしょうか?近年、デジタルの絵作りについての議論が希薄になっており、メーカー側も画質に関する進化を緩めている感がありますが、心を動かす写真という視点から見れば、まだまだ、やるべきことは山のようにあると思っています。銀塩時代に育ち、そのよさを知り、デジタル時代に生きている世代が、きちんとやるべき仕事だと思っています。写真家側もメーカーが作った絵作りに満足し、それが絶対的なものと考えている人もおられるようです。しかし、モノクロ時代、あれほど画面内で細部にわたり、きめ細かく処理した経験を持つ世代にとって、メーカーが作ったままの絵作りを最善と考えるのには大きな疑問があります。作者の意図を考えず一律的に作られたメーカーの絵作りを善し、作者が意図を持って画像処理で調整したものを是とする風潮が見受けられるのを残念に思う、今日この頃であります。なんか、偉そうなことを申し上げ、申し訳ありません・・・。