写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

今も鮮やか57年前のコダクローム


小野田正欣(おのだ まさよし)さん1929年生まれ、1951〜53年の3年間、朝鮮戦争の間、沖縄に仕事で米軍基地強化のため滞在していました。仕事は、今はない大日本土木という建設会社でした。当時、特殊業務のため本土の給料の2倍をもらっていた小野田さんは、遊びに使ってしまってもしょうがないと、沖縄の写真を撮ることにしました。まず、ツァイスのセミイコンタ(6×4.5cm判)を購入し、黒白フィルムで那覇周辺を撮影し、次にライカIIIf(ズマール5cmF2付き)を購入して黒白とカラーフィルムで撮影しました。(右上:小野田正欣さん。2010.01.16)

カラーフィルムはというと、その時代は大変貴重なもので、感度10の“コダクローム”でした。もちろん当時のコダクロームは一般写真材料店で購入できるわけではなく、基地内の米人に頼んでドルで求めたそうです。また、現像も当時は日本ではできなく、ハワイ送りだったのです。(写真左は参考までの1950年頃製造のコダクロームAのパッケージ)
小野田さんの撮影した写真は、那覇を中心とした戦後間もないころの沖縄の生活を知るうえでも貴重な資料です。最初は黒白で撮影していたのを、途中からコダクロームに切り替えて撮影したそうです。そのため、いくつかの写真は、黒白とカラーが同じ場所で、同じアングルで撮影されているのも特徴です。
小野田さんは、これらの黒白、カラーフィルム一式を2000年に「那覇市歴史博物館」に寄贈しました。那覇に行けばオリジナルのフィルムを見ることができるということで、小野田さんから紹介を受け、早速、休日を利用して1月23日羽田発20:00那覇行きの最終便に搭乗し、那覇市歴史博物館を訪れました。場所は、県庁近く、国際通り入り口に面した“パレットくもじ”(那覇市久茂地1-1-1)の4階にあります。実は僕はここ10年ほど、時間を見つけると沖縄に行き、写真を撮影して、2008年に『僕の沖縄 その1』、2009年には『僕の沖縄 その2』という写真展を開くほどの沖縄フリークでもあるのです。そういう意味では、コダクロームの今日の発色の具合、黒白フィルムの保存状態にも写真技術的に興味あるのも事実ですが、1950年代初頭の沖縄の風景はどんなものであったのだろうか、というのも足を向けさせたもうひとつの要素でした。そしてコダクロームのスライドを見てびっくりしました。ほとんど現在のフィルムと変わらない鮮やかな色調なのです。その色調も、その後のコダクロームII、コダクローム25などで見慣れた、こってりとした色合いとは異なり、きわめてあっさりとした、自然な落ち着いた発色でした。

■写真左から、ハワイで現像されて戻ってきたコダクロームのスライド箱(箱そのものに切手、宛先が書かれ戻ってきている)。マウントされたコダクロームスライド(画像が鮮やかでないのはスライドとライトボックスの間に光量調節のために白い紙を入れたため)。黒白フィルムのネガとケース(左は35mm、右は6×4.5cm判)。いずれも那覇市内の写真店で現像され、几帳面に撮影場所、コマ毎に絞り値、Y2、UVなどフィルター名などが記されている。黒白フィルムは、コダックパナトミックX、プラスXが使われた。(すべて那覇市歴史博物館所蔵)
さて、僕がなぜコダクロームの発色にこだわったかというと、実は昨年おもしろい依頼が2件あったのです。ひとつはクリアーカラーネガフィルムとオレンジマスクネガを実際どのようなものか資料提供して欲しいというのと、退色カラーリバーサルフィルムのサンプルを貸し出して欲しいということでした。それぞれ別なところからでしたが、僕が写真を意識して撮りだしたのが1960年代の始めごろで、カラーネガフィルムは1963年を境にオレンジマスクに切り替わっていましたので、そのころの写真を引っ張り出して何とか間に合わせることができたですが、カラーリバーサルフィルムはやはり同時期のものを引き出したらみごとマゼンタ色に退色していたのです。そのリバーサルフィルムは内式と呼ばれるもので、現在は退色に強いとまでいわれるまで進歩したようですが、当時のものは大切に冷暗所にしまっていても、マゼンタ色以外のイエローやシアンが薄く消えてしまっているのです。これらのフィルムはプロの間でも大問題で、復元処理を施せば何とかなるものの、1点につきかなりの手間と高額な費用が発生するのが現実で、特別な作品を除けば、退色に対しては手出しできずに放置されているのが現実です。
ところがコダクロームは外式と呼ばれるもので、一般的には変退色に強いといわれてきましたが、どのくらい強いかは、今日のように時間が経って見ないとわからないわけです。その点において、小野田さんの撮影されたコダクロームフィルムはみごとに、色鮮やかさを保っていたのです。また、1960年代の一部銘柄では、退色に加え、後処理(安定化処理)に問題があったのか、乳剤面に残渣が析出してきて、退色以上に復元できない状況を作り出していますが、少なくとも小野田さん撮影のハワイで現像されたフィルムにはそのような残渣の析出は認められませんでした。
さて、偶然といえばそれまでですが、那覇市歴史博物館では2010年3月5日から5月13日まで『本土人が見た1950年代の沖縄』という写真展が開催されます。前半を小野田正欣さんの作品で、後半を1959年に沖縄の正月を撮影した福岡の写真家井上孝治さんの作品で構成されます。前半の小野田さんの作品展示のときは井上さんの作品はポートフォリオで、井上さんの作品展示のときは小野田さんの作品はポートフォリオでという具合にどちらも見られるように工夫されています。小野田さんの作品は街角の風景が中心。一方、井上さんの作品は人物が中心というわけで、どちらを見ても、貴重な写真として価値あるものと思います。
☆☆☆写真展期間中の3月6日(土)14:00から那覇市歴史博物館で小野田正欣さんによるトークショーの開催が決まりました。
以下、小野田さん撮影のコダクローム、ライカIIIf、ズマール5cmF2での作品をご覧下さい。

那覇市波上宮」、撮影:小野田正欣、1953年、那覇市歴史博物館所蔵

■「石川マーケット」、撮影:小野田正欣、1953年、那覇市歴史博物館所蔵

■「名護のひんぷんガジュマロ」、左:撮影:僕、2007年、右撮影:小野田正欣、1953年、那覇市歴史博物館所蔵

■「ひめゆりの塔」、左撮影:小野田正欣、1953年、那覇市歴史博物館所蔵、右:撮影:僕、2007年、左写真の人物3人の中にある板碑だけが現在も残っている

◇私の見た沖縄  -----------------------  小野田正欣(おのだ まさよし)
●沖縄への渡航
 焼土と瓦礫と化した街の古本屋をめぐり、やっと手に入れた伊波普猷『沖縄考』を唯一の知識の手掛かりとして沖縄へやってきた。学生運動が影響したのか、なかなか渡航許可かおりなかったし、台風で船ごと桜島に乗り上げたり思わぬ時間をかけての到着であった。
 終戦を陸軍航空隊で迎え、引揚援護同盟にいたりいろいろなところを観てきて、地上戦のあった沖縄がどうなっているのか自分の目で確かめたかったこともある。当時、本土では私文書の開封検閲が続き、集会(学園祭なども含む)も警察への届出を要し閉塞した空気の中にあった。朝鮮戦争の勃発は一転して日本の建設業者にも沖縄基地建設協力の要請をもたらした。私たちが関係したのは、天願基地の4万バレル地下タンク(昆布に現存するものか)、嘉手納基地の海側にある地上タンク(現存するものではない)などである。知念に米軍の地下司令部建設の噂もあったが、戦争の終結で日本人は工事完了(一部打切り)後、速やかに日本に帰れといった方針であったように思う。
●写真による記録
 米国の政策は、1953年のアイゼンハワー大統領の年頭教書にあるとおり「沖縄は無期限に保持する」と米国領としてグアム同様に扱う考えではなかったか。常に日本人・琉球人と区別し取り扱われたこともあり、当時の心境では二度とこの島へくることもない、また渡航許可をおろさないのではと思われた。
 こんな中で、沖縄の現況を記録しておこうと業務の暇をみつけ写真を撮りに歩いたのである。従ってほとんど単独行のため、同僚ですらこれらの写真があることを知らなかったのではないか。
 那覇の市場のオバアやアンマーたちの意外なほど明るくたくましく生きる姿には安心感を覚えたが、一方離島から中学卒業でそろってコザの米兵相手のバーにやって来る小柄な若い娘さんたちの姿には胸が痛んだ。50数年たった今、写真を見て米国占領統治下の時代も元気に働き、いろいろな苦難を乗りこえて島を支えてきた人々の努力を想いおこしていただければ幸いである。
●貴重なカラー写真
 私の写真を見て、まずその当時にカラー写真があったこと、ついで半世紀以上前の情景が色鮮やかに残っていたことに驚かれたのではなかろうか。
 カラーはすべてコダクロームでご覧のとおりほとんど退色・変色がなく、2000年の11月に那覇市のパレットくもじで展示した際、コダック営業所の人たちも当時の高度な技術に感心したほどである。米軍工事を担当する日本業者は、PXで煙草・菓子・せっけんなどの日用品をNon Taxでまとめて買うことができたが、カメラ・フィルム・時計などは買うことができなかった。米人の手をわずらわしてドルで買って貰う他なかった。コダクロームは20枚撮り現像代込みで、現像にはハワイまで送らねばならなかった。送料を含め1500日本円がかかり、大卒初任給5000〜6000円の時代には高価なものである。住むところと食事の無償支給を受け、大卒初任給程度の手当をB円(1ドル=120B円=360円)で支給されていたので、飲む打つ買うにうつつを抜かさなければ何とかなったのである。実際に撮影した写真のうち、スナップがペリー百年祭くらいで景色が主体となっているのは、フィルムがASA10の低感度であったことによる。ASA100〜800のフィルムが普通に使用される今ではちょっと考えられない事である。
●半世紀前の沖縄写真事情
 市販のモノクロは、長尺のものをパトローネに適当に切って入れた代物で、何枚撮れるかやってみなければわからない。戦果物で期限が切れているのか、現像室が高温のためか(冷房設備は皆無で扇風機があれば上等)カブッたでき上がりが普通であった。那覇ですらフィルムの現像、引き伸ばしができたのは、現在の国際通りにあった植田さん他2、3の写真機店であった。当時の国際通りは、泉崎から安里への一車線、一方通行のドロンコ道で車が1まわりしてくる間に用をたし、とび乗る芸当が必要だった。私の住んだ馬天や安慶名には取扱店といったものもまったく存在しなかった。ほとんどの村落では日暮れから11時までヤンマー発電に頼っていた時代である。
 パトローネは何度も再使用するため、テレンプがすり切れていて最初の3枚ほどは感光していることを覚悟の上で空シャッターを切ったものである。ASA25や50が普通でライカコンタックスなどの標準レンズにFI.5、F2などの明るいものが開発されたのもこんな理由による。露出計は高価なため、勘で絞りとシャッターを決めて撮るので失敗も多く、現在那覇市に保管されている500枚の数十倍のシャッターをきったのではなかろうか。
 沖縄に半世紀前の写真が少ないのは経済的な理由だけでなく、フィルムの入手から現像引き伸ばしまでの繁雑な面倒な工程にあったのではなかったか。PXではすでにサービスサイズ焼付けの機械が作動していたが(拡大焼付けといった)、調整不充分でピンぼけも平気の状態だった。とはいえライカ判(135フィルム)が普及したのも、レンズ交換の可能性だけでなく、それまでの高価で手間のかかる引き伸ばしに取って代り、皆さんご承知のサービス判焼付け機械の導入と進歩が貢献しているのではなかろうか。デジタルカメラに主流となった現在から見れば、すべて過去の夢物語である。

◇付記◇外式カラーリバーサルフィルムは発色色素が現像液中に含まれ、内式カラーリバーサルフィルムは発色色素がフィルム乳剤中に含まれています。イーストマン・コダック社のKODACHROMEは1935年に発売されましたが、2009年に製造が中止され74年の歴史に幕を閉じました。これで国内外のカラーリバーサルフィルムは、すべて内式となったわけです。今回の興味の対象はコダクロームの発色でしたが、もうひとつ黒白フィルムのビネガーシンドロームも気になるところでした。少なくとも保存の黒白ネガは、目視的には問題ないように見えましたが、フィルムをしまうときプーンとわずかに酢酸臭がしたのが気になりまた。また、1960年代の内式カラーリバーサルフィルムの変退色はいうまでもなく、さらにもうひとつ気になったのは、紙マウントの問題です。小野田さんが撮影しハワイで処理されたマウントは上の写真でお分かりのようにまったく剥離していません。一方で、1960年代以降の国産紙マウントは、現在ほとんどばらばらに剥離しています。技術は常に進歩するものであるはずなのが、10年という時を経て退歩するのも不思議なことです。時間経過で、まだまだ何かの問題が出現してくるかもしれません。