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写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

写真展「金丸重嶺 vs 名取洋之助 --- オリンピック写真合戦 1936」と講演会

 「金丸重嶺 vs 名取洋之助 --- オリンピック写真合戦 1936」と題して、JCIIフォトサロンで1936年のベルリンオリンピック当時に金丸重嶺と名取洋之助の撮影した競技ならびにドイツでの生活をまとめた写真展が6月5日(火)〜7月1日(日)まで開かれます。
 それに合わせた関連イベントとして、来る6月9日に講演会『彼らがドイツで目指したものは、』が開かれます。講師は、日本大学芸術学部写真学科専任講師・鳥海早喜氏と日本カメラ財団調査研究部長・白山眞理氏の2人です。
 1936年というと昭和11年で、ベルリンオリンピックでは、ライカの宣伝を兼ねたパウル・ヴォルフ(Dr. Paul wolff)による写真が良く知られ「ライカIII型」の時代でした。さらにこの年に「オリンピアゾナー18cmF2.8」と「コンタックスII型」が、さらにカラーリバーサルフィルムの「アグファカラーノイ」が発売された年でもあり、アメリカではスチル用のコダクロームが発売され、写真技術にとっても大きく飛躍した時代でした。さらに当時は、日独間の写真電送がようやく開始された時代で、金丸重嶺は日本新聞写真連盟(福岡日日新聞、新愛知新聞、河北新報北海タイムス、アサヒカメラ)特派員、名取洋之助は中外商業新報(現日本経済新聞)とドイツのウルシュタイン社特派員であったため、写真送稿では25歳の名取が10歳年上の金丸を出し抜いたこともあったようで、競い合った2人の写真は、今日の新聞でのオリンピック報道合戦の原型ともいえます。


≪金丸重嶺撮影、古田康治選手(3段跳び)練習風景(ヘルシンキ)。かなまる しげね:1900年東京生まれ。1926年に日本初の商業写真専門スタジオ「金鈴社コマーシャルフォトスタジオ」を設立。1929年にはP.C.L(現東宝映画株式会社)嘱託カメラマンとなる。1935年、全日本写真連盟理事就任。1936年に渡独してオリンピック取材後にヘルムアーベル写真学校で学び、同年帰国。1939年に新設の日本大学専門部芸術科写真科(現日本大学芸術学部写真学科)主任に就任。1943年に陸軍省後援の写真壁画「撃ちてし止まむ」の撮影を担当。戦後、1958年に日本広告写真家協会(APA)初代会長、1960年に日本大学理事、1966年に同大芸術学部学部次長就任。1977年没≫

名取洋之助撮影、スタジアムでのナチス式敬礼、開会式(ベルリン)。なとり ようのすけ:1910年東京生まれ。慶應義塾普通部卒業後ドイツに渡り、1931年にミュンヘンのグラフ雑誌に寄稿した写真が採用されて写真家となる。以降欧洲のグラフ誌で活躍し、1933年に東京へ拠点を移して日本初の報道写真制作集団として日本工房を設立。1934年に対外宣伝グラフ誌『NIPPON』創刊。1936年にオリンピック取材でドイツを再訪し、翌年アメリカで『LIFE』契約写真家として活躍後に帰国。1938年の国家総動員法施行後、陸軍の上海写真制作所(プレス・ユニオン・フォトサービス)の写真撮影、配信を請け負う。1940年には中国へ移住して、終戦まで対外宣伝グラフ誌などの制作を指揮する。1946年に中国より引き揚げ、国内向けグラフ誌『週刊サンニュース』編集、『岩波写真文庫』の撮影、編集、制作を行ない、晩年は中国の麦積山やアルプスのロマネスクをテーマに撮影を重ねる。1962没≫
 さて、金丸重嶺と名取洋之助が使ったカメラ機材はライカかそれともコンタックスか? 写真展に合わせて、2人が使ったカメラやレンズも展示されるようで、カメラファンにも見逃せない写真展であり、講演会であります。講演会の詳細はこちら、お申込み・お問合せは、03−3261−0300まで。