写真にこだわる

写真の楽しみ方それぞれ。デジタルからフィルムまで、さまざまな話題を提供します。市川泰憲

カメラグランプリのエンブレム

 佐野研二郎氏がデザインした2020東京オリンピックのエンブレムが、使用中止になりました。この過程で、さまざまな佐野氏のデザインワークがそのオリジナリティーをめぐって洗われましたが、その中の1つにカメラグランプリのロゴマーク(右に掲載)がありました。
 カメラグランプリは、1984年にカメラ雑誌のメカニズム担当記者が集う「カメラ記者クラブ」が主催して、カメラ記者クラブメンバー、加盟誌編集長、写真家や学識経験者などが選考委員となって、その年に最も技術的に優れたカメラを1台選ぼうということでスタートした賞です。もともとカメラグランプリのスタートは、1982年ごろ業界のメイン製品である一眼レフカメラが何となく元気がなくなってきたこと、ヨーロッパなど海外では優秀なカメラを選び出す賞はあっても、日本にないのはおかしいではないだろうかということで、2年ほどの準備期間を経て、1983年にカメラ記者クラブ内にカメラグランプリ実行委員会が設けられ、1984年6月1日写真の日に第1回カメラグランプリを選出したのです。当時、僕はカメラ記者クラブのメンバーで、設立当初の実行委員会の事務局長を務めていました。そのころはわれわれはエンブレムと呼ばずに、「ロゴマーク」と呼んでいましたが、オリンピック組織委員会ではエンブレムと呼んでいますので、ここでもエンブレムと呼ぶことにしました。実は、カメラグランプリ開始の1982年から2010までの28年間は別のエンブレムを使っていました。佐野研二郎氏によるデザインのエンブレムは2011年から使われていたのです。なぜ、新エンブレムで佐野研二郎氏なのかは、当時のカメラ記者クラブニュースレリーズに詳しいので、そちらを参照してください。
 ここで僕が書き記しておきたいと考えたのは、初代カメラグランプリのエンブレムはいかにつくられたかという話です。カメラグランプリの成立には、各誌編集長、編集人の同意を得るには、かなりの準備期間を必要としました。その中には実行委員会として、一部編集長への挨拶というような、きわめて日本的な儀礼などがありましたが、無事、第1回目を迎えることができたことは、感慨深いものがありました。その過程で、グランプリのエンブレムをどうするか、表彰楯をどうするか、表彰式をどこで行うかなど、予算の捻出なども含めて、いくつもの課題がありました。このうちエンブレムは、デザインを得意とする会員に任せる、表彰楯は、当初は有名彫刻家によるブロンズ像の制作などが案として出されましたが、こちらは元像の制作費だけで60万円ぐらい、毎年新しい複製を作るのに5万円以上を必要とするというのであきらめました。最終的には、ブロンズ像でなく、表彰楯にし、自分たちでデザインして当時学研キャパの編集部にいた豊田豊州さんの親戚で東銀座にある楯屋さんで、銅板に金メッキを施して額装するということで解決しました(右上は、その表彰楯です。第1回目の受賞はニコンFA、当時のニュースレリーズ用の写真は紙焼きの黒白でした)。会場は経費が安い青山学院大学の青学会館を学研キャパ青柳昌樹さんが富士フイルムの担当者から紹介してもらうなどでスタートしたのです。もちろん、初回は予算もなく、表彰式に来ていただいたメーカーの方には紅茶とケーキが用意できても、外部委嘱の選考委員の先生方、メンバー、編集長にはケーキはなく、ひんしゅくを買ったのは、今となっては楽しい思い出です。
  その表彰楯の上に描かれているのが、当初使用されたカメラグランプリのエンブレム(右に掲載)です。このエンブレムは、やはりカメラ記者クラブメンバーで当時アサヒカメラ編集部にいた堀瑞穂さん(現在はフリーライター)がデザインしたものです。オリンピックのエンブレムもそうでしたが、原案がでてから、メンバーでこうしたらいいのではなどとアイディアをだし、カラーで使うときはどのような色指定にするか、モノクロで使うときはどのように網をかけ濃淡を表すかなど細かく決めました。とくに雑誌など広告に使うときには、必ず選考全雑誌の名前を入れるなどの条件を付けました。このデザインは簡潔明瞭です。中央は、レンズの絞り羽根に見立てたCameraのCを形どり、周辺はGrandprixのGと目をイメージさせるものです。もちろん当時はインターネットなどで元画像を参照(収集)するようなことはできませんし、やっとパーソナル用のワープロが出始めたころでした。グランプリノミネート機種130台近くを、当時個人用として発売されたばかりで20万円以上した、「マイリポート20」というワープロで入力し、真夜中にやっとできあがる直前にフリーズして、電源を落としてすべてやり直しということが何度かあり、その現場を写真に撮り、メーカーに提出し、後日新型と交換してもらったら、安定性が増し、使いやすくなり、定価は8万円ぐらいと値下がりしていて、電子時代をいやというほど思い知らされました。

 上は堀瑞穂さんがデザインしたエンブレムの元絵です。当時は鉛筆で描き、いくつか原案が提出され、皆で修正案をだし、最終的なエンブレムが決められました。やはり時代を感じさせます。でも、この時代はデザインセンスに加え、デッサン力も必要としたのですね。
 そして栄えある第1回のカメラグランプリの授賞機種は、日本光学工業の“ニコンFA”(右)となりました。5分割のマルチパターン測光、1/250秒シンクロ、最高速1/4000秒シャッター、可変プログラムAEなどが評価され、いずれもその後の一眼レフカメラの技術トレンドとなったのは、第1回目受賞機種に相応しいものでした。

 受賞メーカーには、カメラグランプリのエンブレムを使うことが許され、日本光学工業はさまざまなグランプリマーク入りのグッズを製作しましたが、豪華な高級感あふれるポスターも制作し、日本の第1回目カメラグランプリを盛り上げてくれました。

 そのきわめ付けは、桐箱入りの「ニコンFAゴールド」。ボディ背面右肩にはカメラグランプリのエンブレムと文字が刻まれています。白手袋付きで、ひもの結び方の解説書入りです。(根本泰人氏所有、撮影)
 カメラグランプリ発足当時のカメラ記者クラブ代表幹事はカメラアート社の等々力國香さん、カメラグランプリ実行委員長はアサヒカメラの飯塚征毅さんでした。なお、この記述は僕個人の備忘録でもあります。
 好評につき第1回授賞式の写真を追加します。

カメラグランプリ'84授賞式。左:左から司会の市川、飯塚さん、元日本カメラの河野和典さん、右:挨拶する第1回カメラグランプリ実行委員長の飯塚さん、その左から、当時の日本光学工業(株)社長の福岡成忠氏と日本光学工業列席者

左)授賞の挨拶を述べる当時の日本光学工業(株)社長の福岡成忠氏、右)外部委嘱選考委員を代表して祝辞を述べる当時日本大学芸術学部写真学科教授の石井鋨太氏